#5

 玲が、彼女が生前住んでいたという住宅街に来るのは初めてだった。住み慣れた町から遠く離れたその場所は、同じような住宅がいくつも立ち並び、のっぺりとした印象を受ける。夕闇が近付いてきたせいもあり、抽象絵画が描き出す赤黒い不安のような風景が開けていた。

 黄昏時の住宅街は生活音があふれている。近くの家からはテレビの音が洩れ聞こえた。またどこか遠くの家では母親が子供を呼ぶ声が聞こえる。それぞれの家には明りが灯り、そこには自分たちとは異なる世界に生きている人々の営みを主張していた。

 ふと玲が隣に立つ彼女の表情を伺うと、先ほどまでとは異なり、緊張した面持ちである。自分の顔を見つめている玲に気がつくと、無言で気弱そうに笑った。

 玲はそんな彼女の様子を見て、しばらく考え込んだのち、彼女の手を取り、握りしめた。

 やはり霊体である彼女の手を握ってもなんの質量も感じなかったが、それでも彼女はやわらかく玲の手を握り返してきたように思う。

 そうして二人は手をつなぎ、住宅街を歩いた。


 何もいわず二人で路地を歩いていたが、彼女は思案顔で玲に話しかけた。

「そういえばさ……、家にたどり着いたとしても、どうやってお父さんやお母さんと話せばいいのかな? うちの家族は霊感なんてないよ?」

 彼女はそういいながら自分の手を透かすようにして見つめる。

 玲は前方から視線を外さずに答えた。

「その点は問題ないと思います。あなたほど生前のイメージがはっきりした霊であれば、相手が意識を集中してくれれば、意思の疎通は行えるはずです」

「ふうん、そんなことができるんだ……」

「あなたの両親にはまずわたしがコンタクトを取り、あなたに意識を集中してもらいます。そうすればあなたのメッセージは伝わると思います」

「そっか、玲ちゃんには面倒かけちゃうかもしれないな」

 彼女は不安げな顔を作る。

「うちのお母さん、すぐに泣いちゃうからさ、話なんか聞いてくれないかも……」

 玲はそんな彼女の様子を横目にして、はっきりと断言した。

「不安に思う必要なんてないです。子のことを思わない親なんていません。あなたの両親もあなたの事を思い続けているはずですから、あなたの想う気持ちを伝えればいいのです」

 そっか、と彼女は情けないような笑顔を浮かべてうつむいた。玲も何も言わず、二人は歩き続けた。


 彼女は何も言わず角を右に折れる。

 玲はじっと足元をだけ見つめて、彼女の行く先を追う。


 彼女の足が止まった。

 玲は顔を上げ、目前の家を見据えた。


 その家は、周りの住宅とさして変わらず、住宅街に溶け込んでいる様に見えた。薄暗い闇の中、オレンジ色の暖かな灯りを灯している。白木の表札には「守屋」と記されていた。

 玲が再び彼女の表情を伺うと、不安の色はもうなかった。

「やっと……帰ってこれたんだ」

「行くんですか?」

 彼女は小さく頷く。

「……うん」

 つないでいた手を離し、玲がインターフォンのボタンを押そうとした時、一台の自転車が、住宅の前にブレーキ音を立てて止まった。


 その自転車にはまだ幼い、小学生低学年ほどと思しき少年が乗っていた。玲を見つめると小首を傾げる。

「あれ? お姉ちゃん、うちになんかよう?」

 少年は自転車を駐輪すると、ばたばたと玲の前を走りぬけ、扉のノブに手をかけた。

「おかあさーん、ただいま! お客さん!」

 玲は目前の光景を呆然と見ていた。振り返り、彼女を見つめると、彼女は首を横に振る。

つよし! 靴下はちゃんと脱いで上がりなさいよ!」

 家の廊下の奥から、中年に差し掛かった女性が顔を覗かせ、玲の姿を認めて歩いてきた。毅と呼ばれた少年は玄関に腰掛けるともぞもぞと靴下を脱いでいる。

 女性は廊下を歩いてくると、門前で立ち尽くしている玲に話しかけた。

「こんばんわ、うちになにかご用ですか?」

「…………」

 玲は手のひらにじっとりと汗がにじんでくるのを感じる。

「……なんでしょうか?」

 女性は、何も話さない玲へ訝しそうな眼差しを向けた。

 玲は勇気を振り絞り話し始める。

「……実は、お宅のお嬢さんの事なんですが……」

「えっ!?」

 女性は驚愕の表情を浮かべ、目を見開く。

「――真輝まきの事を何かご存知なんですか!?」

「…………」

「お父さん! ちょっと来て!」

 女性は家の奥へばたばたと駆け戻る。少年はそんな母親の姿を、不思議そうに見つめていた。

 家の奥から声が漏れ聞こえた。

「……どうしたんだ、そんなにあわてて」

「真輝の事を知っているっていう女の子が……――」

 玲は足元を見つめていた。時間が妙に間延びしたように思える。足元がふわふわとして地を噛んでいない。

 そのとき、誰かが後ろから腕を引いた。

 あわてて後ろを振り返ると、彼女が玲の腕をつかんで、涙を目にいっぱいにためて首を振っていた。

 家の廊下をゆっくりと二人の男女が歩いて来るのが見える。

「本当か? 警察でもまだみつからないって」

「でも知っているっていってるんですよ!」

「……お父さん? お母さん?」

 少年は両親の様子が不審であることを察したらしく、神妙な表情になっている。

 また、彼女が玲の肩を引く。

「玲ちゃん……もうやめて! もういいから!!」

 彼女は大粒の涙を流しながら、大声で叫んでいた。

 玲は、一瞬でここに留まるべきではないと分かった。守屋家に背を向けて歩き始める。歩む足が徐々に速くなり小走りになる。

 後ろから声が聞こえる。

「……おい、あの子か?」

「……ちょっと! あなた!」

 玲は走った。後ろから彼女の両親が呼びかける声が聞こえたが、走る事に全神経を集中した。

 追ってくる声は風を切る音に混じり、やがて、消えた。

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