第3話 そわそわ、ドキドキ


 2月の議会が終わり、3月になるとオペラの上演準備で業務が増える。人事異動のことばかり気にしている場合ではないのだ。決算書を精査していると、「あち」と田口の声が聞こえた。


 驚いて視線を向けると、どうやらコーヒーをこぼしたらしい。十文字が「ドジなんだから」と笑っているところだった。


「田口。集中しろ。そわそわして浮足立っているように見えるぞ」


「そうですよ、田口さん」


 十文字は偉そうに頷いているが、そういう彼は仕事の手が止まってしまっているようだ。田口は申し訳なさそうに頭を下げる。


「すみません。集中しているつもりなんですけど……」


「つもり」という言葉が出るくらいだ。集中できていないことを、田口自身が理解しているのだろう。


「火傷しなかったか。冷やしてこい」


「大丈夫です。咄嗟に避けましたから。本当は熱くないんです。熱いって思っただけです」


 田口はいつもそうだ。保住を心配させまいとする。たまにはいいのに——。保住は頭の後ろで腕を組んだ。集中力が切れれば、仕事をする気持ちは薄れる。余計な話をしてみたくなったのだ。


「おれは3月は嫌いだな。仕事は落ち着かないし。業務量も増えるし」


 渡辺も頷く。


「本当です。そろそろ異動の赤紙が回ってきますしね」


 谷川は「それにしても、今年の異動は見えませんよね」とつぶやいた。それもそのはずだ。順当にいけば、渡辺と谷川が異動になるから、そういう噂が多少は入ってくるはずだ。


 しかし。そうではない。今年の異動には、澤井が推し進めるプロジェクトが絡む。澤井を快く思わぬ輩の妨害を抑え込むため、今回の人事は、かなり厳重に管理されている、と聞いている。


 しかし谷川たちに、そんなからくりがわかるはずもない。保住は「そうですね」と彼の意見に同意して見せる。それがうれしいのか。谷川は続けて言った。


「係長も異動対象だし、そういう渡辺さんやおれだって」


「三人も異動したらどうなるんだろう?」


 田口と十文字は顔を見合わせる。


「おれたち二人ではな」


「自信ないですけど」


「でも、その可能性は大?」


 谷川の言葉に田口も頷いた。


「そうですね。渡辺さんは、5年だし。谷川さんは4年。係長も4年。おれは3年……」


「係長クラスの異動は早くて2年だから。4年って長いですよね」


「初めての係長職だし。少し長めにおいてくれたんでしょうね」


「そうは言っても限界ですよね」と谷川が言った。保住は笑ってから「さて、どうなることやら」とおどけて見せた。


「田口や十文字に任せられるように、仕事引き継いでおきましょうか!」


「そんなこと、言わないでくださいよ~」


 十文字は気が気ではないようだ。「ひいー」っと悲鳴をあげている。皆が笑い声を上げたその時。定時を知らせる鐘が鳴った瞬間。田口はパソコンを閉じた。


「すみません。お先に失礼いたします」


 今日は早く帰るなんて聞いていない保住は目を瞬かせる。「そうか」と呟いてみるが、彼が早く帰る理由が見当たらない。渡辺は「なんだよ~、そんなに急いじゃって。飲み会? 彼女?」と田口を茶化しているが、彼はまったく相手にするつもりはないらしい。


「失礼します」とだけ言うと、さっさと鞄を抱えてさっさと事務所を後にした。


「なんだ、あれ?」


 残されたメンバーは顔を見合わせるが、すぐに気を取り直して作業に戻っていく。保住もまた、残務整理に手をつけるが、その手は止まる。


 ふとスマートフォンにメッセージが表示されたからだ。送り主は田口だった。『今日は少し寄るところがあります。先に帰っていてください』と書いてある。先に帰れと言われても仕事が終わらない。特に面倒なので『了解』とだけ返答した。


 ただ田口がいつもと違った行動を見せると、その理由を知りたくなる。彼のことは全て把握しておきたいのだ。


 いくら恋人とはいえ、田口にだって個人の用事はあるはず。なのに、全てを知りたい。意外だった。今まで付き合った相手のことを、こんなに興味を持つことはなかったからだ。


 世間一般で言う、束縛。独占欲……とでもいうのだろうか。首を振ってはみても、田口が何をしているのかが気になって、仕事は捗らなかった。


 渡辺が帰り、谷川も帰った。残る十文字にも帰宅を促そうと顔を上げると、彼は仕事をしてはいなかった。どこかぼんやりとしていて、パソコンの画面を見ているようで見てはいない。


「大丈夫か。帰れないか」


 保住の声に彼は弾かれたように顔を上げた。


「いえ。えっと。すみません」


「効率が悪いなら今日はやめたほうがいい。明日までに仕上げなくてはいけないものがあるのか」


「そういうわけでは……」


「じゃあ、帰れ」


「……でも」


「うだうだされていたのでは目障りだ」


 言葉尻はきついが、これは保住の優しさだ。十文字は諦めたのかパソコンを閉じた。


「係長」


「なんだ」


「異動してしまうんでしょうか」


「おれか? そうだな。異動だろうな」


 彼は黙って保住を見る。


「この仕事は異動がつきものだ。仕方なかろう」


「そうですよね。でも。すごく、この今のメンバーで仕事ができて良かったです」


「そう思ってもらえるなら嬉しいな」


 彼は荷物を抱えあげると頭を下げて帰っていった。


 不穏な彼をここに残すのは心配になる。田口もいなくなるのだ。多分、残されるのは谷川と十文字だろうな。そんなことを考えてから手を止めると野原がやってきた。


「お疲れ様です。なにか」


「お前、残業が増えている。不都合ある?」


 彼は田口の席に座ると保住を見据えた。


 ——おれののとを心配しているのか。この人が? まさか。


「すみません。異動があるのかと思うとやりたい事が山積みです。自分の自己満足なんですがね」


 野原は保住の手元にあるマニュアル集を見下ろす。


「案外、残された者たちは、それなりにやるものだ」


「そうなんですけどね。それはわかっているのですが……」


「さすがのお前もこんな膨大なマニュアル作るのは時間が掛かる?」


「そうみたいですね」


 彼はじっと保住を見つめたまま呟く。


「市制100周年記念事業推進室の創設。若手の先鋭を集めたスペシャリスト部署」


「なんです? その恥ずかしい文句は」


 保住は笑うが野原はふと口元を緩めた。


「全く馬鹿げた謳い文句だけど、議会ではそのように説明された」


「興味もないので。すみません。把握しておりませんでした」


「お前らしくもない」


 保住はため息を吐く。


「正直言うとワクワク半分。気が重いのが半分です」


「お前が?」


 野原は意外そうに目を瞬かせた。


「おれの決めたメンバーでやれることは光栄ですよ。ただしもう一人は」


「そんなこと? 澤井が貰い受けると聞いている。ああ、ヤキモチ? お前以外の職員を欲しがっている澤井への嫉妬」


「そう見えますか」


「そう見えなくもない。けれど、それだけでもない気がする」


 さすが野原。思慮の深い男だ。



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