第2話 新旧振興係



 保住にはいい顔をしたものの、田口の心中は穏やかではない。一緒に新年会に行くことばかりを考えていたおかげで、突然の予定変更に、気持ちが追い付かないようだ。「唸るなよ」と渡辺に指摘され、自分が変な声を上げていたことに気が付くくらいの話だ。


 田口は「すみません……抑えきれない心の問題が……」と答える。目の前にいる渡辺と谷川は顔を見合わせると笑みを見せた。


「お前が落ち込んでいるのを慰めるのも、おれたちの仕事だったよな」


「そうですね」


 二人の会話に十文字が口をはさんだ。


「なんだか、お別れみたいな言い方じゃないですか。来年度も、田口さんの面倒みてくださいよ。渡辺さんも谷川さんも」


「そうはいってもな。おれたちは異動対象者だ。二人一緒に移動——なんてことはないかもしれないが。可能性としてはゼロでもないんだから。おれたちがいなくなったら、田口と十文字で盛り立てていくんだぞ。係長だって異動になるかもしれない」


 渡辺は谷川に視線を送る。彼も大きくうなずいた。


「係長の仕事ぶりを見ていると、どうやら異動の話が内々にあるんじゃないかって思える。間違いなく、係長は異動だな」


 田口は軽くため息を吐いた。その件も引っかかっているのだ。わかっている。いくら恋人とは言え、機密の案件を田口に話すほど、保住は軽い男ではないということを。しかし。心のどこかでは「教えてくれてもいいじゃないか」という不貞腐れた気持ちがあるのは確か。ここのところの憂鬱さの原因はそれだ。


 渡辺は田口の肩を叩いた。


「ってか、異動してきたばっかりの頃は、ポーカーフェイスのクソ真面目野郎かと思ったけど。蓋を開けてみたら、仕事が出来なくて怒り出して泣いたこともあったっけ」


「教育長の研修の時なんて、ほっぺにキスマークだもんな」


「この三年間。本当、お前には楽しませてもらったぞ」


 渡辺はにこにこっとして田口の肩を叩く。


「あれは……汚点です」


 指摘されて久しぶりに思い出す。太ったどこかの教育長につかまれて頬にキスマークをもらった時のこと。なんだか遥か昔のような気がするが、今でも彼女の唇の感触に身震いがした。


「男らしいと思いきや、ただの中学生でお人好し。結構ナイーブだしな。ああ、そうそう。訛りも可愛い」


 渡辺は愉快そうに手を叩いた。


「お二人とも本気で勘弁してください」


 褒められることには慣れていない。田口は耳まで赤くする。


「本当、お前をからかうと面白いな」


 この時間がいつまでも続けばいいのに——。田口はそう思っていた。保住がいて。渡辺がいて。谷川と十文字。そして自分だ。こうして互いをよく理解し、笑いあい、助け合い。こうしてやってきた。市役所に入ってから、こんなに楽しかった職場はない。


 ひとしきり笑うと、ふと静寂が訪れた。ここに全員がカラ元気を見せているという証拠だ。表情が翳ったその時。渡辺が「来たら行こうか」と手をこすり合わせた。


「あいつ?」


 田口と十文字は顔を見合わせた。


「本当ですね。今日はスペシャルゲストがいたんだけどな」


 谷川も知っているのか、肩をすくめる。どうやら、知っているのは二人だけのようだ。


「係長がいないと知ったら残念がるぞ」


「スペシャルゲストって……? 誰ですか」


 そんなことを話していると、大きな声の男が手を振ってやってきた。


「お疲れちゃーん」


「遅いぞ」


「待ちくたびれましたよ」


 渡辺と谷川は男を迎え入れる。


「あ……、矢部さん」


 そこには矢部がいた。相変わらず、でっぷりとしたお腹を揺らし、黒い鞄を斜めにかけていた。


「なんだよ。お前もお出迎えしてくれんの? いい心掛けじゃん!」


 矢部は田口の背中をどんどんと叩いてくる。十文字は初対面。目を瞬かせて矢部を見つめていた。


「矢部さん。今日は係長、パスですって」


「え〜〜! 嘘でしょう!? おれ、真面目に楽しみにしていたのにぃ〜!」


 矢部は本気でがっかりした様子。


「なんで、なんで〜?」


 今度は田口に掴みかかる。自分だって泣きたいのに。


「仕方ないじゃないですか。忙しいんです」


「お前さ。本当、使えねえな。なんとかしておけって。お前が手伝わないから係長の仕事終わらないんだろう?」


「手伝えるものなら手伝いたいです!」


 二人がぐずぐず言っているのを見て、十文字はぽかんとしていたが、矢部はすぐに彼を見つけたようだ。


「なに、なに。このオシャレくんは」


 渡辺が紹介する。


「お前の後にきた十文字だ」


「なんだよ〜。こんなオシャレなやつ配属させちゃってさ。おれの存在感なんて微塵もないじゃんかよ〜」


 矢部は相変わらずだ。今日も一緒に机を並べて仕事をしていたのかと思うくらい、馴染んでいるからおかしい。


「そう言うなよ。異動して落ち着いたら、係長も入れて、またみんなで飲もうぜ」


「わかりましたよ」


「どれ、行くぞ」


「行こう、行こう」


 肩を落とした矢部と田口をはげますように、渡辺は明るい声を上げた。それにつられて、歩き出す一団だが目の前の扉が開いて、課長の野原が姿を現した。彼も帰るところだ。黒いコートに鞄を抱えていた。


「お疲れ様です。課長」


 こんな廊下に人が沢山いるなんて思ってもみなかったのか。野原は一瞬、動きを止めてじっと一同を見渡した。そんな彼に渡辺が声をかけた。


「課長も一緒にどうですか?」


 谷川たちは「本気?」と言う顔で渡辺を見る。しかし、言われた張本人は目を瞬かせるばかり。奇異なものでも見てしまったかのように。見てはいけないものでも見てしまったかのように。ぽかんとした瞳で四人を見つめた。多分、見たことのない矢部をどう理解しようか考えているところなのだろう。


「一緒って、なに?」


「飲み会ですよ、飲み会。今日は振興係の新年会なんです。昨年度までいた、この矢部くんも交えての新旧振興係の新年会! 忘年会の続きなんて楽しいじゃないですか」


「忘年会……」


 谷川の言葉に一瞬で野原の顔色が悪くなる。そして荷物を握りしめて方向転換をした。


「帰る」


 彼はスタスタと廊下に消えて行った。


「お疲れ様でした〜。今度、また飲みましょうね〜」


 手を振る渡辺。それを見送って谷川は矢部に耳打ちする。


「新しい課長ですよ」


 矢部はニンマリと笑った。


「なにあれ。不思議生物? 保住係長同様、いじりたくなるタイプ!」


「でしょ? 矢部さんならわかってくれると思っていました」


 谷川は笑った。野原はこの前の忘年会で、振興係にいじられたことがショックらしい。最近、渡辺や谷川が近づくと自然に腰が引けているのが見て取れる。ある意味、この振興係の面子が最強かもしれない。保住もよくこのメンバーを統率していたものだ。


 もし、彼が異動になんてなったら、この矛先は誰に行くのか……? 考えただけで恐ろしい。


 ——自分も異動したい。


 田口は心からそう思っていた。


「どれどれ、行きますか!」


 こうして新旧振興係のメンバーは新年会へと繰り出した。




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