第3話 母、来襲
『午後は早退する』なんて決めたものの、一度職場に来てしまうと忙しいものである。それに気乗りしないことだ。気持ちが後ろ向きで、もたもたとしてしまうのかも知れない。
「田口、帰れ」
保住に声をかけられて顔を上げると、時間は午後1時前になるところだった。
——まずい。12時過ぎに到着する新幹線で来ると言っていた気がする。
席を立つ保住を横目に、十文字が田口を突いてきた。
「田口さんが早退だなんて。珍しいですね。いったい、なんなんですか?」
今日は特に忙しい日だった。ほかの職員たちも昼休み無しで書類づくりをしているのに、自分だけが帰ることに、余計に後ろめたい気持ちになるばかりだ。
「あ、うん。ちょっとね……」
「なんか悪いことするんじゃないでしょうね」
「なんで悪いことになるんだよ」
からかわれているようで、気分が悪い。顔をしかめてみせるが、谷川や渡辺も話に乗ってきた。
「確かに。平日に休みが欲しいなんて。きっと悪いことを企んでいるに違いないな」
「田口~。お前も隅におけないな」
「なんのことですか。渡辺さん。谷川さん」
心の片隅では「早く帰れ」と言っている自分がいるものの、悪い冗談だと知りながらも、こうしてみんなとここにいたい気持ちの方が勝る。本来ならば、付き合いきれないところだが、あえて三人の話を受け止める。
「じゃあ、どんな用事だよ? 免許証の書き換えとか? 平日にしなくちゃいけない用事って行政関係の手続きだろう? 家でも売るのか?」
渡辺の妄想はかなり飛躍しすぎだ。パソコンを閉じる手をのろのろと動かしながら「違いますよ」と返していると、野原のところから戻ってきた保住が呆れた顔を見せた。
「お前、まだいたのか」
「すみません……」
保住は「早くいけ」という視線を向けてくる。田口は観念して、荷物を持ち上げた。いつまでもここにいても、なにも終わらないのだ。さっさと行って、「ごめんなさい」と言えばいい。それだけの話だ。田口は意を決して腰を上げる。と——。
「すみません~。田口銀太はおりますか?」
突然。扉が開いて、でっぷりとした田口の母親が顔を出した。
「!?」
——なんで?
入り口付近の十文字が立ち上がった。
「あ、はい。田口なら……」
——やめて。
十文字を止めようと肩を掴むが、すでに遅し。田口の母親は自分の息子よりなにより。真正面に座している保住を見つけたようだ。
「あらやだ! 係長さんじゃない。ご無沙汰してます」
保住は彼女の元に歩み寄った。
「ご無沙汰しております。お変わりないようで。安心しました。まさか、お顔がみられるなんて。嬉しいです」
田口の母親は本気で嬉しそう。顔を赤くしてきゃっきゃと喜んでいる。
「あらやだ。あらやだ。よがっだ~。ここさ寄ってみて。係長さんに会えるなんて、嬉しいわあ。銀太、本当にご迷惑ばかりでしょう? まっだく。あら、銀太は? どこさ行ったのかしら」
可愛いらしくなまっている田口の母親。渡辺たち三人は視線を交わして笑みを見せる。田口は「穴があったら入りたい」という言葉通り、十文字の後ろに身を潜めてみるものの、勿論、隠れ切れるわけがない。母親は、さっそく田口を見つけて、嬉しそうに声を上げた。
「あらやだ! あんだ、そんなとこにいて。駅にいないからもう、しびれ切らしてここまで来ちゃったんだから」
「なんで職場さくんだよ~。勘弁してくれって」
「あんだがちゃんとしないからよ。本当に。普通はお出迎えっつーのするんだべ。お出迎え」
「おれだって仕事なんだからさ。待ち合わせ場所は、連絡したべ」
「そんな失礼な話あっかよ」
「母さん……」
親子の会話を唖然として聞いていた三人だが、ぷっと吹き出す。
「田口って」
「すごく訛ってません?」
「なんか。イメージ違うな~……」
そんな周囲の反応に、田口は耳まで熱くなった。
「ここは職場だ。さっさと廊下出て。おれも行くから」
田口はぎゅうぎゅうと太った母親を廊下に押し出す。すると廊下に初老の男性と、線の細い女性が立っていた。
「銀太」
「義一郎おじさん。お久しぶりです」
「銀太、元気そうだな」
彼はにこっと人の良さそうな笑み。親戚とは言え、本家の人も田口に似た風貌だ。そして母親が女性を紹介する。
「佐藤優愛さんだ。可愛いべ」
白いコートにピンクのマフラー。ストレートロングで清純そうな女性だった。
「は、初めまして。佐藤です」
だがしかし。イントネーションは雪割調だ。彼女は緊張しているのか、頬を赤くして、ぺこっと頭を下げた。
「た、田口銀太です。すみません。職場なのもので、後でちゃんと話しますから。少し待っていてください」
「はい」
事務所から事の次第を見守っている保住に視線を向けて田口は頷く。
「じゃあ、行ってきます。すみません。お先に失礼します」
荷物を抱えて田口は事務室を出ていった。
***
「行ってきますって。なに? 誰に言ってんだ?」
彼が出て行ってしまうと、渡辺は苦笑した。確かに早退するのに「行ってきます」はない。保住は笑ってしまった。
「廊下に女子がいましたけど。母親も来てってことは。あれって、見合いですか?」
谷川も興味津々な表情だ。だが保住と田口のことを承知している十文字は、ふと心配気に保住を見てくる。「あの……」と十文字が声を上げた瞬間、野原がやってきた。
「なんの騒ぎ?」
しらっとした無表情で立ち尽くす野原に、保住は頭を下げた。
「お騒がせして申し訳ありません。田口の家族が面会に来ていたもので」
「それって、問題あるの?」
保住は野原を見上げてから、低い声で答えた。
「……いえ。問題はありません」
「そう。ならいいけど」
「はい……」
野原は、なにを考えているのかわからない割に、小さいことでも、なにかあると必ず声をかけてくる。とても気の利く男である。いつもは無表情で、無機質なくせに。部下の行動、部署の雰囲気は逐一、観察しているということだ。
野原は保住を見据えて「今日、2時から県庁。お前も一緒に」と言った。
「おれも、——ですか」
「別に。忙しいならいいけど」
野原は保住に一瞥をくれた。
「承知しました」
「出発は1時40分ね」
「はい」
二人の会話を聞いて渡辺は首を傾げた。
「今日の会議って。別に係長まで行かなくてもいいんじゃないですか」
「いや。そうですね。まあ。誘ってくれるのですから。行ってみます」
デスクに戻ってさっそくお菓子の袋を見つめている野原を見て、保住は苦笑していた。彼なりの配慮、なのだろうなと思いながら。
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