第2話 誠意ある男


 結局、母親にはメールで断りの返事を入れた。『急な案件が入り、春まで動けない。年度末は異動もあるから、忙しい』と送ったのだった。


 1月3日の市役所。文化課振興係以外でも、あちこちの部署は動いている。特に忙しいのは秘書課や観光系だろう。正月でも様々なイベントがある。いつもよりはひっそりと、だけど静かでもない市役所内。事務所の扉を開けるといつものメンバーが顔をそろえていた。


「あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします」


 保住の挨拶に一同は頭を下げ、口々に挨拶を述べる。文化課振興係は3月までのラストスパートの時期である。残り三ヶ月とは言え、年度末のオペラ開催も控えていた。


 今回は予算が少ないところでの開催なので、出演者は地元のセミプロが多い。昨年の出来栄えとは明らかに異なることは目に見えているが、継続していくことが大事だった。


 なにせ、三年後に控えた市制100周年事業でも花を添えてくれる企画になるからだ。途切れてしまったのでは上手くはない。なんとしても繋いでおきたいというのが、保住の思惑だった。


 しかし、忙しい時に限ってスマートフォンがうるさく鳴る。


 母親だろう。お断りメールを一方的に送ったから怒っているのか、仕事中でもなんでも電話を寄越すのだ。無視に限る。こちらの意向は伝えたのだから、用はない。


 しかし……。田口は、その無視を決め込む作戦が裏目に出るとは思っても見なかった。それが明らかになったのは、一月も中旬過ぎであった。



***



 雪の多い年だった。道路が見えきたかと思うとまた雪。積もっては解けの繰り返しは路面を氷化する。「ぎゅーっとコートの背中を握られても……」と、田口は苦笑した。


「明日からは、庁舎前まで車でお送りしますよ」


 後ろで田口にしがみついている保住を見下ろして苦笑する。 


「そ、そんなみっともないことするか」


「そうは言いますけど。そんなにしがみつかれても……」


「誰もいない間だけだ。近くなったら手を離す」


 雪道で転倒してから、怖いと思うようになったのだろう。ツルツルの路面で悪戦苦闘している彼は面白い。


「保住さんって、本当。からだの感覚が鈍いですよね」


「鈍いと言うな。コントロールが難しいだけだ」


「そうそう。それですね。あ、そうか。感覚が鈍いわけではないか。むしろ敏感です」


 軽く笑って退けて見せると、田口が憎たらしいのか。保住は不満げに眉をひそめた。


「冗談に聞こえないぞ」


「すみません。冗談ではないのですけど」


 普段は何事も勝っている保住だが、雪道だけは田口に軍配が上がる。


「見ている分にはいいが。通勤があるから雪は嫌いだ」


「そうですか。おれは雪、大好きなんですけどね……?」


 もう少しで市役所。そんなところで、田口のポケットに入っているスマートフォンが鳴った。保住のことに気を取られていた。大して相手を確認することもなく、応答してしまったのが運の尽きだった。


「もしもし」


『銀太! もう。何度も連絡しだんだから』

  

 ——しまった。油断した。


 母親である。


「今から仕事だから」


 切ろうとすると、向こうから聞き捨てならない言葉が聞こえてくる。


『今日、行くから』


「は? はあ!?」


 田口の反応に、コートを握りしめていた保住は顔を上げた。


『先方さん、もう待てないって言うし。ともかく。その子と一緒に義一郎さんと私とで行くから』


「!?」


 ——困る。来るって……。


『大丈夫。日帰りにする予定だから』


「おれ、仕事だし」


『なんとかしなさいよ。午後からくらい休み取れるんでしょう? どこかいいところでお茶して。会ってみなさい』


「……ッ、無理。無理だからね! じゃあ」


 強引に通話を切ってやる。勘弁して欲しい。なんて身勝手と思うと、軽く憤りを覚えた。珍しく不機嫌になった田口を、不思議そうに保住は見上げてきた。


「田口?」


「……母です。お見合いの件、お断りしたっきり無視していたのですが。今日、先方さんと梅沢に来ると言ってきました。勝手なんだから……っ」


「今日?」


 保住は目を丸くする。


「どうするのだ」


「無視しますよ。どうせ。来たっておれの家だってわかりっこないです」


「そうなのか?」


「そもそものマンションの住所なんて教えていませんし。無視します」


 やっとの思いで玄関に到着。雪のない場所にたどり着き、保住の手が田口のコートから離れた。なんだか、名残惜しい気持ちになる。ずっとこうして触れていて欲しかったのに。


 保住は「そんなこと言わないで、ちゃんと時間を取ってやれ」と言った。田口は不安な気持ちになる。ただ実家の親と会うのではない。これは「見合い」なのだ。保住を見下ろすと、彼は心なしか顔色が悪かった。しかし、首を横に振ってから、真剣な眼差しで田口を見上げた。


「おれは大丈夫だ。お前のこと信じている。だから。ちゃんとして来い」


「でも」


「あんまりそんな態度では、相手の方にも失礼だろう? それに、お前のお母さんだってわざわざ梅沢までいらっしゃるんだ。無視なんてしてはいけない」


 ——わかっている。わかっているけど。でも、嫌なのだ。


 ぽんと肩を叩かれる。


「お前は誠意ある男だ」


「……保住さん」


「大丈夫。ちゃんと待っているから」


 彼はふと笑みを見せてから歩き出すが、その瞳には不安の色が見て取れた。保住だって心配している。不安にさせてはいけないのだ。


 田口はため息を吐いて、保住の後ろを追った。




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