第10話 誕生日は最高の一日でした。
「田口さん。いい加減にしてくださいよ」
定時前、資料を片付けていた十文字が田口に声を掛けてきた。
「なに? なんの話?」
「係長の機嫌の悪さですよ。田口さんが課長からチョコなんか、もらうからじゃないですか」
「それは、別に。おれのせいなのか?」
「じゃあ、誰のせいだって言うんですか?」
薄暗い書架部屋で十文字は不平たらたらだ。
「というか。なんか殺伐としていないか? 十文字」
「仕方ないじゃないですか。おれの私生活、一つも潤いがありません」
「それこそ、おれに八つ当たりされても……」
「田口さんばっかりウハウハ幸せ気分満喫じゃないですか! 八つ当たりもしたくなります。ああ、もう! おれって
幸せなことばかりではないのだ。保住と出会ってからとても騒がしくて、毎日があっという間だと言うのに。
「この部署、なんで男ばっかなんですか。出会いが一つもない」
「お前が女性に興味があるとは、……意外だ」
「失恋したんです。次は真っ当な恋でもしてみようかと」
「そんないつもとは違うことを考えているから、いい人が見つからないのではないか」
田口の指摘に十文字は「なるほど」と手を叩いた。
「やだな。そんな簡単なカラクリが……」
「カラクリもなにもないだろうに」
「でも、こう。ぐっとくるような人とは巡り会えませんよね。野原課長って、可愛いけど、なんか違うしな」
大きくため息を吐く十文字。
「野原課長までそう言う対象として見るって。お前、やはり筋金入りだな」
「あ、渡辺さんや谷川さんは、圏外ですよ」
「お前、失礼だな」
「田口さんだって同感でしょ?」
「おれは係長以外はどうでもいい」
田口の返答に彼は手を鳴らす。
「はいきた! お惚気」
「うるさいな。さっさとやって仕舞いにするぞ。本当、酔っている時並の絡みようだな。本気で早く相手を見つけてくれ。おれは、相手しきれない」
「飲みに行きましょうよ。おれの愚痴聞いてくださいよ。先輩の務めでしょ?」
だんだんと十文字のキャラがおかしい。図々しくなってきているのは気のせいか。
——彼に似合う相手なんているのだろうか?
田口と違って初めから男性が恋愛対象だ。相手に理解がないと難しいに決まっている。なかなか彼に恋人ができるのは先である気がする。と言うことは、こうして暫くは愚痴を聞かされると言うことか。
「十文字」
「はい?」
「お前、その性格直した方がいいぞ」
「は? おれ、そんなに性格悪いですか?」
「悪いと言うか。——悪いよな」
「……ショックです。帰ります」
「いや、あのさ! ごめんって」
肩を落として書架を出ていこうとする十文字だが、くすっと笑う。
「嘘ですよ。性格悪いのは元からです。気にしません」
「……その開き直りようが、やはりモテない原因だよな。お前と付き合うって変わり者がいたら、顔を見てみたいものだ」
「田口さんに言われたくないです」
二人は資料の片付けを終えて事務所に帰ると、定時を過ぎていたが、みなが揃っていた。いつもと変わりがない。そう思っていたのに。突然、保住がパソコンをシャットダウンした。
「係長、お帰りですか」
彼が一番に帰宅するなんて、珍しいことだ。渡辺が顔を上げる。
「ええ。すみません。お先に失礼します」
——自分も帰らないと?
田口は保住を見るが、彼は目も合わせない。
「田口、頼んでおいた報告書、明日までにやっておけよ」
「え!」
——それって、残業しろと言っているのか。
田口は肩を落とす。
「あーあ。田口さん、残業決定」
十文字の茶々に一同は笑うが、「お先に失礼します」と保住は事務所を出て行ってしまった。
「置いてきぼり」
クスッと笑う十文字が流石に憎たらしい。田口は大きくため息を吐いてパソコンの前に座った。
***
一人の帰り道だった。夜空の星を見上げる。朝晩は涼しい。来週を過ぎればクールビズ終了だ。やっと落ち着けると思った。やはり、かっちりした格好が好きだ。ネクタイが復活すると安心するのだ。
保住に言いつけられた報告書を取りまとめて市役所を出たのは8時を回っていた。先に帰った保住よりも随分な遅れだ。本当に長い一日だった。散々だったし、疲れた。
「う〜……」
——寝たい。今日は寝たい。
「保住さんを抱っこして寝たいけど……」
——機嫌が悪いのだろうな……きっと。
なかなか足が向かなかった。アパートの外でウロウロとしていると、そばを通った女性が怪訝そうな顔をしてこちらを見ていた。不審者だと思われたらしい。
「な、なんでもないんです!」
田口は慌てて両手を振ってから、玄関を開ける。
「ただいま……です……」
室内は静かだった。そもそもテレビなど見るような男ではない。在宅している間もタブレットやパソコンを開いて仕事のことばかり取り組んでいるのだ。しかし、それにしても人がいないのではないかと思われるくらいの静寂だ。
靴をそろえてからそっとリビングを覗き込むと、保住はリビングの机に突っ伏して寝ていた。待ちくたびれたというところか。そばには、田口からしたら120点の肉じゃがにラップがされていた。
「おれの好物じゃないですか」
保住の髪に触れる。今朝から騒動を引き起こした寝ぐせは健在だ。よほどの寝癖だったようだ。田口は愛おしむようにそっと、保住の頭を撫でた。すると、保住の目元が震えて、彼は覚醒した。
「遅いぞ、田口〜……」
「すみませんと言いたいところですが、あなたが課したノルマです」
「もっと早く作れよ、馬鹿者」
「今日は疲れました。すみません、効率が上がりませんでした」
頭を撫でたまま田口は続ける。
「おれの好きな肉じゃが。ありがとうございます。今日は、本当に散々だったけど、最後にいいことありました。温めてきます」
ウダウダとしている保住だが、田口が荷物を置いてキッチンに向かうと、後ろから保住がバタバタと追いかけて来た。
「田口っ!」
何気なしに冷蔵庫を開けた田口は、目が点だった。
「え!? えっと!」
「だ、ダメだダメ! 見てはならない!!」
「——しかし。もう見てしまいました」
田口は目を瞬かせて保住を見る。
「本当! お前というやつはデリカシーがないというか、」
「あの……デリカシーって」
田口は冷蔵庫に置いてあったケーキの箱を見つめた。
「あ、あんな、野原のチョコレートなんて、別に気にしてはいないからな! おれはただ、今日はお前の誕生日だと……」
——声がちっちゃくなっているじゃない。
田口は苦笑した。
「嬉しいです」
「は、はあ?! おれはちっとも嬉しくなんて……っ」
顔を赤くしている彼を引き寄せて抱きしめる。
「ありがとうございます。こんなに嬉しい誕生日は生まれて初めてだ」
「なにもしていないだろ? ケーキ買ってきただけだ。おれの誕生日にもケーキ、買ってきたから……」
「あの時は骨折していて、冷や汗かいていましたよね」
「ああ、そうだな。なんだか昔に思える」
ぎゅうぎゅうとすると、保住の躰は軋む。
「痛い、田口」
「ありがとうございました」
保住の肩に顔を埋めて、田口は目を閉じる。散々だったけど最高の一日。
——田口銀太。32歳が始まります!
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