第4話 人間とは別の生き物
野原は星音堂が初めてのようだ。駐車場に車を停めると、視線を巡らせて辺りを見渡しながら外に降りていった。
「こちらです」
人間とは別の生き物を連れているような感覚に陥りながら、木々の合間を抜けて、玄関から中に入る。それから事務所に顔を出すと、神経質そうな顔の安齋がいつものように顔を出した。
「こんにちは。いつもお世話になっております」
「またお前か」
安齋は嫌そうな表情を見せる。
「そう言うなよ。今日は課長も一緒だ」
田口が後ろに立っていた野原に視線をやると、流石の安齋も『課長』と聞いて恐縮したのか。不意に謝罪をした。
「失礼致しました」
しかし頭を下げられた野原は相変わらずの無表情だ。
「いや、気にしない」
保住の寝癖を指摘していた割に安齋の態度についての指摘はないようだ。無視と言うのか、安齋のことを相手にしていないと言うか、どちらかといえば、建物に興味があるらしく相変わらず視線を巡らせているばかりだ。
三人が窓口で話していると、奥で仕事をしていた星音堂長兼課長の水野谷がぱっと笑顔を見せながら出てきた。
「野原じゃない。課長になったって聞いていたけど、きてくれたんだね」
野原は水野谷を確認すると、はっとしてから頭を下げた。
「水野谷課長、お久しぶりです」
「やだね〜。堅い挨拶は。聞いているよ。君の課長昇進は早すぎるなんて言っている奴もいるって。でも、そんなことない。当然のことだろうね。気にしないんだよ」
水野谷はそう声をかけているが、田口には疑問だ。彼がそんなことを気にするようなタイプなのだろうか。
——意外だ。
野原は「ありがとうございます」と頭を下げた。水野谷の笑顔に対し、野原は少しはにかんだ表情を見せたのだ。
——これも意外。こんな顔するんだ。この人……。
田口は目を丸くした。彼の感情を見たのは初めてなのではないか。
「局長から修繕の発議があると聞きました。予算に取りにあげる都合、現場を確認したいと思います」
「もちろん! よろしくお願いします。相変わらず真面目だね。自分の目で見ないと、なんて。あの頃と全く変わっていないね。……星野、案内して」
水野谷の声に星音堂職員の星野はめんどくさそうな顔をした。
「勘弁してくださいよ。おれも忙しいんですから」
「んなこと言って、もう仕事なんて終わっているだろ?」
水野谷は苦笑する。何度か足を運んでいるうちに、星音堂職員のことも少しずつ理解してきているところだ。星音堂のことを知り尽くしているのは、星野をおいて他にはいない。確かに適任である。
しかし、相変わらずだらしのない格好の星野は、保住の寝ぐせを指摘するほど身だしなみにも厳しい野原に取ったら嫌いなタイプなのではないかと思った。
——今朝みたいに嫌悪感を露わにするのか?
しかし田口の予測とは裏腹に、野原は律儀に頭を下げた。
「突然で申し訳ない。よろしくお願いします」
——え! 怒らないの? なにこれ、全く持って田口の予想を裏切ってくる。
読めない。この人のこと。困惑するばかりの田口もそれに倣って頭をさげた。
***
「……で、ここの床材を変更したいんですよ」
野原は見積書をまじまじと見つめていた。
「桜じゃないとダメ?」
「桜の無垢材は音の響きを良くするんだ」
星野は「ほら」とホール全体的が見渡せる位置に野原と田口を連れてきた。そして周囲を指差す。
「あの壁面の青いタイルは陶器だ。九谷焼でできている。わざわざ取り寄せているんだぜ」
「九谷焼」
「そうだ。あれも音の響きをよくするために設置されている」
「陶器に桜の無垢材」
「そしてこの凹凸の壁面設計。全てが噛み合って、星音堂の残響時間は3秒。満席時でも2.5秒だ」
「残響、時間?」
野原の問いに星野は大きく両手を広げたかと思うと、手を打ち鳴らした。パーンと空気を切り裂くような音が耳を突く。そしてその後、ホールには響が充満した。
「これは……」
「これこれ。どうだい? 随分と響きが残るだろう? これが残響時間。この時間が長いほど響きが残って音が豊かになる。まあ、強いて言えば、風呂場みてーなモンだな」
「風呂場……」
「そそ。風呂場で歌うと気分がいいだろう? あれは響きが残ってなんだかうまく聞こえる訳。カラオケもそうだ。エコーの調節機能を少し長めにすると、なんだか上達したように聞こえんだろう」
野原は困惑した顔をする。田口も同感だ。音楽は苦手。
「歌は、歌わない」
「あのさ。それはどうでもいいけどさ。想像もできない訳? じゃあ、そこの兄ちゃん、ここで一曲歌えや」
星野は田口を見る。田口は「え!」と驚いてオロオロとした。
「う、歌ですか?」
「お前、歌えるの」
「歌えるわけないじゃないですか! スポーツ一筋です。急に歌えと言われても、なにも思いつきもしません」
「残念」
「つまんねーし」
野原と星野の冷たい視線には耐えられないのか。田口は顔を青くしてオロオロとする。野原の嫌いなタイプだと思ったのに。こうして回っていると、星野と野原は意気投合する場面が多い。なんだか田口だけよそ者みたいな雰囲気で嫌になった。
星野の説明はわかりやすい。ホールを成す材料のことは知っているつもりだが、細かいところは星野には敵わない。
「それってすごいこと?」
「すげーし。残響時間コンテストがあったら、全国でも五本の指には入るぜ?」
「そんなにすごいんだ……」
——そう、そうなのだ。
そんな素晴らしいホールが梅沢にはあるのだ。しかも今まさに自分たちが管理の手伝いをしているのだ。誇らしい仕事だと思う。うんうんと頷いていると、野原の視線に気がついて表情が強張る。
なんだか調子が狂う。野原の気持ちも行動も読めなさ過ぎて、すごく疲れるのだ。咳払いをして誤魔化すと、野原は星野との会話に戻った。
「じゃあ、やっぱり桜の無垢材限定」
「そうだよ。だから、それで見積もり出してんだろ。このホールも老朽化してんだ。建築当初よりも木材も陶器も劣化してしている。このままだと、このホールの売りの残響時間が短くなる。だから、なんとかして欲しいんだよ」
星野の要望は最も。素晴らしいものを素晴らしいままで維持するのも役目。野原は頷いた。
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