第2話 お洒落と寝癖の違い
案の定、保住の寝ぐせを見た渡辺が、小さく笑った。谷川も笑いを堪えているのか口元を抑える。みんなが見て見ぬふりをしているというのに。十文字は素直というか、なんというのか——。「やだ。係長。頭変ですよ。大丈夫ですか?」と言った。
真っ向から指摘されるのも面白くないだろうし、影で笑われるのだって面白くはないだろう。保住は思い切り不機嫌な感情を顔に出している。この状況で、平然と彼に話しかける十文字の気が知れないと田口は思った。
「放っておけ。おれの勝手だ」
「でも……」
それでも食い下がろうとする十文字を渡辺が止めた。やっと口を閉ざす十文字。田口はほっとした。こういう日はそっとしておくに限る。機嫌が悪い時の保住は、田口であっても手に負えない。時間が解決してくれるのを待つしかないのだが——。そういう日に限って。いや、いつもの如く野原の声が響いた。
昨晩の一件もあるというのに。野原はいつもと変わらない様子で書類に視線を落としながら保住を呼んでいた。
ひと悶着が起きるのは目に見えていた。ことが大きくならないように、なんとかしたい。そうは思っていても、田口には成すすべがない。ただ、心の中で祈るしかないのだった。
——澤井さんだったら力でねじ伏せるのだろうか?
昨晩から田口の心は不安で支配されている。保住と澤井。保住は「心配ない」と言ってくれるけど、やはりこの不安だけは永久に拭えないものだ。
田口は仕事をする手を休めて、保住と野原へと視線を向けた。案の定。保住は不機嫌な口調のままだった。
「おはようございます。朝一からなにかご用でしょうか? 課長」
嫌味くさい敬語に野原は、身動ぎもせずに見ていた書類を差し出した。
「この企画書だが……」
視線を上げてから、野原は言葉を切る。そしてじっと保住を凝縮していたが、ふと彼の頭を指差した。
「服装や身なりの乱れは困る。なんだ、その頭は」
田口は、「地雷を踏んだ!」と思った。渡辺や谷川も首を竦める。波乱の予感。思い切り不機嫌な表情をした保住は、野原を冷ややかに見つめていた。
「これのどこが乱れだと言うのです? お洒落に決まっているではないですか。——野原課長。お洒落に疎いとは知りませんでしたね」
保住の声は大きい。総務係や文化財係の職員は黙って素知らぬふりを決め込んでいたはずなのに、堪えきれずに吹き出した。
「お洒落?」
野原は目を瞬かせる。そんな様子を横目に、保住はしらっとして言い切った。
「あまり
「支離滅裂だ」
「無理過ぎるでしょ。係長……」
振興係のメンバーは生きた心地がしない。しかしその堂々たる言い草。無茶なこともハッタリで押し切る保住の強引さは澤井そっくりだと思うしかない。あまりの堂々さに、周囲の人間たちは、一気に保住の空気に引きずられているようだった。
「田舎くさい見てくれは、宜しくないですよ。野原課長」
——保住さんのほうが十分変だろう!?
田口は内心そう思うが、なぜか課の大半が保住の意見に賛同しているような雰囲気。保住の持てる力だ。周囲を巻き込み、いつのまにか自分の味方にしてしまう。
「課長は厳しいんだよな」
「お洒落したっていいじゃない」
そんな言葉が、田口の耳にも聞こえて来た。むろん、それは野原のところにも届いているのだろう。彼は首を傾げていた。それは当然のことだ。どうみても保住のほうが悪いに決まっている。へんてこな寝ぐせを付けているからだ。それを指摘するというのは上司として当然のこと。
しかし常日頃から、野原に手厳しくされている若い職員たちは保住よりの意見を述べる。確かに首を傾げてしまう事態だった。
周囲の空気が自分を非難するような色になっているとは言え、野原は全く気にしないのだろう。彼は平然と言い放った。
「お洒落とは気の利いた服装のことを指す。おれはその寝癖が気の利いた髪型とは思えない。それこそお前の品格を落とす。忠告してやったが、そう言い張るのであれば、そのようにしておけ。戻っていい」
今回ばかりは野原のほうが正論だ。田口はため息を吐いた。保住は時々、理不尽なことを言い放つ。まあ、そんなところも引っくるめて彼なのだと田口は認識しているが……。
「ありがとうございます」
開放されたというのに、保住は相変わらず不機嫌なままだ。野原をやり込めることは、一筋縄ではいかないということらしい。
彼の昇進は
寝癖一つでここまで大騒動になるなんて。そっとしておいた方がいい話題もあるものだ。素直に直せばいいだけの話なのに。
——保住さんって、本当に意地っ張りなんだから。
ぴょんと跳ねた髪が揺れている保住。それを眺めて、田口は「本気で直してやりたい」と叫んでいた。
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