第3話 給湯室での噂話
「そう気にするな」
野原と槇が一緒にいるところを目撃して一夜が明けた。朝からそのことばかりが引っかかって、気持ちが晴れない。そんな田口を見て、保住はそう言って笑った。彼はいつも通りだった。なのに、なぜ。自分はこうも引っかかるのか。
田口は落ち着いて仕事に集中することもできなかった。いつも通りに仕事をしている同僚たちの中で、なんだか自分だけ浮いているような感覚に襲われて、いてもたってもいられない。田口はマグカップを持って廊下に出た。
谷川の予算書は、保住と谷川で練り直したものを今朝ほど提出した。野原は昨日とは一変し、すんなりと決済が下された。谷川はほっと笑顔だったが、田口は腑に落ちない。
——昨日はあんなに渋っていたのに。今日はどういう風の吹き回しなのだろうか。
野原は市長の私設秘書である槇とつながっていた。噂では、彼は市長の甥っ子だそうだ。市長が初当選したときから、槇はずっと一緒にいる。つまり、市長の右腕ともいうべき男だ。
そんな男と野原は一体、どんな関係なのだろうか。そして、その野原が振興係——いや、保住に対して突っかかってくるのは、なにか意味があることなのだろうか。
田口は組織内の仕組みがよくわからない。ドラマの見過ぎなのだろうか。先日見た、国家組織の陰謀をテーマとしたサスペンスドラマが脳裏をよぎった。
——うう。落ち着かない。
コーヒーを淹れようと給湯室に行くと、総務の女性職員が二人、立ち話をしていた。どうやら仕事の話ではなさそうだ。二人とも手にマグカップを持ったまま、「まあ」とか、「やだ」とか声を上げている。これは明らかにさぼりの域だ。
「あの後、あいつ。男お持ち帰りよ」
「嘘! かわいい顔して、やることはやるのね」
田口は足を踏み入れてしまってから後悔したが、後の祭りだ。彼女たちは、ぎょっとしたような顔をしてから、相手が田口だとわかると「なんだ」と興味もなさそうに視線をそらした。
女子職員は苦手だ。振興係にいないせいか、どう接したらいいのかわからない。いつもだったら、「すみませんでした」と言って、方向転換するところなのだが。ふと彼女たちの情報網はすごい、ということに気が付き、勇気を出して声をかけてみることにした。
「あの」
総務係の遠藤はお団子頭を揺らしながら、「なんですか? さぼっているとでも言いたいんですか」と田口をにらみつけた。なにもしていないのに、こうもあからさまに嫌な顔をされると、腰が引ける。しかし、そうも言っていられないのだ。田口は「いや。ちょっと。今日は聞きたいことがあって」と声を振り絞った。
すると、遠藤の隣にいた大戸が「聞きたいことって?」と口をはさんだ。彼女のほうは、まだ敵意はなさそうだ。二人は顔を見合わせて田口を見た。女性とは頼られると悪い気がしないものなのだろうか。さっきまでの怪訝そうな顔とは打って変わって、二人は田口を見る。
「いや。大したことじゃないんだけど。課長のこと。ちょっと聞きたくて」
「野原課長?」
「私たちだって、そう詳しくありませんけど。——なにを聞きたいんですか」
「えっと」
田口は言いにくそうにしていたが心を決める。
「プライベートとか。年齢のこととか。なんか噂とか……なんでもいいんだけど」
田口の質問に、彼女らは顔を見合わせて意味深な顔をした。
「なに?」
「っていうか。振興係の田口さんでしたっけ? なんで課長のこと知りたいんです?」
「いや。その。なんだか不思議な感じのする人だなって思って。ほら。おれたちの席って課長から遠いしね。なにかと接点が多いのは総務係じゃないかなって」
——そんなおかしな言い訳で通用するのか? 相手は女性だぞ?
田口は内心そう思うが、彼女たちはまんざらでもないのか顔を見合わせてから口を開いた。
「噂だらけでしょ? 課長って」
遠藤はけらけらと笑い声を立てた。
「そんなに噂があるんだ」
「そうですよ」と大戸が説明をしてくれた。
「あの若さで課長でしょう? エリートコースに乗っているんでしょうけど。どこが買われているのか、さっぱりわかりませんよね」
「課長っていくつなんだろう」
「今年35って、篠崎係長が教えてくれましたよ」
「へえ、40手前で課長ってすごいね」
「でしょう? だ、か、ら。ねえ」
「色々と黒い噂が付きまとうんでしょう?」
二人は視線を合わせて笑っている。どうしてこうも女性というのは、意味ありげに話すのだろうか。教えてくれるなら、さっさと教えてくれればいいのに。田口はそう思った。
「ねえ、教えてくれないかな」
すると、遠藤は「えー。ただってわけには、ねえ?」と言った。交換条件を提示するというのか。しかし、背に腹は代えられない。田口は「ランチは?」と口走った。
こんなこと言って、保住に怒られるのは目に見えているのに。彼女たちが一緒したいのは、自分ではなくきっと保住だ。保住との会食を約束すれば、きっと彼女たちはなんでも話してくれるに違いない。それだけ、女性陣の保住人気は不動のものだと自覚しているからだ。
「今度、うちの係長を誘ってランチはどう?」
二人は目配せをしてから、にこっと笑う。
「まあ、いいでしょう」
「ドタキャンした時には……」
「野原課長に言いつけてやる」
「わ、わかった。わかりました」
田口は両手を合わせる。女性職員の一人、遠藤は得意そうに笑みを浮かべてから、田口に耳打ちした。
「市長の私設秘書の槇さんとは幼馴染なんですって。だから、槇さんが市長にかけあって、出世街道まっしぐらなんじゃないかって」
大戸が付け加える。
「槇さんと言えば、市役所の影の実力者でしょう? 安田市長も、年取っちゃったから。使い物にならないもんね」
——槇がどんな男かは知らないが。どっちかといえば、澤井の言いなりじゃないのだろうか。
田口はそんなことを考えながら、二人の話に耳を傾けた。一度話始めると、女性というものは止まらないものだ。田口が聞いてもいないのに、次から次へと野原の話をしてくれた。
「野原課長って、保住係長が嫌いみたいよね。振興係の書類は他の部署の書類よりも念入りに眺めているし。呼び出し率も多くない?」
「そうそう。にこりともしないしさ。なんだか変な人よね」
「でも篠崎係長はお気に入りみたいよ。いつも世話焼いているもの」
「あー、それはそれでわかるかも。なんか危うい感じがね。放ってはおけないのよね。誰か面倒みてあげないとね」
——どこがだ。あんな不気味な男は見たことがないぞ。
田口には女性の気持ちはわからない。保住のことは面倒を見たくなるものだが、野原のことまで面倒をみたいと思ったことはなかった。
女性の目から見たら、保住はなんでもできる男に見えるのだろうが。野原のことは別として、保住ほど手のかかる男はいないのだが。
「とはいえ、私たちは保住係長ファンクラブだから。保住係長に意地悪するなんて、許せないわよ」
「田口くん。ランチ、絶対。ね?」
応援してくれる職員がいることは嬉しいことだが。女性二人の熱い語りを見ていると、やはり別な意味での不安がある。田口は苦笑いをしながら、二人を別れた。
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