第4話 飼い主
田口がぴりぴりしているのが手に取るようにわかる。保住は野原のことをどう見るのか、まだ悩んでいるところだった。田口は、執拗に振興係の書類に文句を言ってくる、というが、そういうわけでもない、と保住は思っていた。
野原という男は、確かに不思議な印象を与える人物だが、仕事については、真面目な職員である。彼が指摘してくる箇所は、こちらにも思い当たる部分が多い。
澤井流で育ってきたおかげで、多少強引にはったりで押し通してきた案件もある。野原はそこを指摘してくるのだ。理不尽な呼び出しではない。保住はそう理解していた。だから田口とは違った見解を持っていたところなのだが。
私設秘書の槇には様々なうわさが付きまとう。私設秘書とは、市長が自ら給与を支払い雇っている秘書だ。故に、市役所の中では部外者なのだ。その彼が、力を持つということは、市役所職員からすれば、警戒すべきこと。澤井はどう思っているのだろうか。
保住は書類を眺めている野原をじっくりと観察していた。不思議な雰囲気の正体は——彼の
——ああ、そうか。
彼の瞳は不思議な色をしているのだ。田口は野原のことを「不気味だ」と表現する原因は、その目の色だった。光の加減で明らかではないが、黒ではないことは確かだ。そして、
——淡い緑?
そんな余計なことを考えていると、保住が自分の瞳をまじまじと見ていることなど興味もなさそうに野原は書類を差し返してきた。
「却下」
——案の定か。
想定内の反応に、保住は表情を変えることなく意見した。
「却下の理由をお聞かせ願いたい。理由がわからなければ、改善のしようもありません」
保住は野原の机に両手をついて、彼との距離を縮めた。
「理由は問題ではない。おれが却下と言ったら却下」
野原は伏せていた視線を上げて、保住を見返した。
「それでは説明責任を果たしてはいませんよ」
「説明責任? そんな責任ある?」
「上司とは思えない発言ですね」
保住は瞳を細めて野原を見据える。しかし彼は「そう? お前は全てを部下に説明をする? ダメな理由」と小首をかしげた。
——以前のおれだったら、その意見に賛成だが。今は違う。
保住は前屈みになっていた姿勢を戻してから、「それは一理ありますが。それでは部下が育たないと言うことを学習しています」と言い切った。デスクに両肘をついていた野原は軽くため息を吐くと、自分の椅子に背を預けた。
「部下を育てるつもりはない。育ちたいなら自分で努力しろ」
野原は興味もなさそうにそう言い切った。彼のいうことは正論なのかもしれない。社会人としてこの場にいるのだから、自分のことは自分でなんとかしろ——。それはわからなくもない。しかし。田口とかかわって、保住はいろいろなことを学んだ。
部下を育てるのも上司の仕事。自らの努力も必要だが、それを支えるのは上司だ。しかし、この男に何を言っても無駄だと思った。これ以上のやり取りは無意味。そう判断し、保住は身を引いた。課長と係長では、真向勝負をしても分が悪いことくらい心得ている。
「ここで言い合いをしていても埒が明かないのようなので、今回は引き下がっておきますよ」
保住の返答に野原は頷いた。
「いい心がけ。少しはしつけが行き届いてきた」
「しつけですか。そう行儀悪くしているつもりはないのですがね」
野原はまるで独り言のように「なにせ、お前の飼い主は素行が悪い」と呟いた。
「飼い主?」
野原はこれ以上は言うつもりがないのか、口を閉ざしていた。しかし面白くない。彼は、ただの上司と部下の関係だけではない感情を持ち込んでいるという意味だ。
——澤井が関連しているのか。
「課長。あなたは一体なにが目的なのですか? 一係をいたぶってもなにも起きやしませんよ」
珍しく喰ってかかる保住を横目で見て野原はそれを制する。
「一係をいたぶる? おかしなこという、それに、こんな場所で話す内容ではない。わきまえろ」
「では、場所を変えていただきましょうか」
「お前の要望に応じる必要がある?」
「課長は売った喧嘩を引っ込めるほど腰抜けなのでしょうか。おれになにか言いたいことがあるのでしょう? 貴方ではなくて、貴方の後ろにいるお方が」
戦闘モードに入った保住を止められる者はそうそういない。しばらく手持ち無沙汰にボールペンをいじっていた野原はため息を吐いた。
「そうだね。いい機会かもしれない。なら。今晩、7時に西口」
「承知しました」
——こんなまどろっこしいことをしていられるか!
イライラした。野原の手から企画書をむしり取ると自席に戻る。
——いい機会だ。課長の化けの皮引きはがしてやる。
保住は内心、自分の思うような展開になってほくそ笑んだ。今晩。きっと——。
「あの男が出てくるに違ない」
自分の飼い主と称するのは澤井のこと以外に考えられない。澤井が絡んでいる案件だとすると、野原個人の問題であるとは到底思えないのだ。市長の私設秘書である槇が絡んでいることは明白だ。
上層部の情報を入手するのは容易な立場にいる槇は、澤井と保住との関係性も掌握しているに違ない。彼はなにをしたいのか。
——こんな小さな嫌がらせをしたいわけではあるまい。
本気で日常業務の妨害だけを目的としているのであれば、それまでの男ということだが……。正直、こうも業務が滞るのは、部下たちにも迷惑がかかるということだ。イライラの蓄積。自由に仕事ができないなんて、翼を失った鳥と一緒だった。
「絶対に許さない。徹底的につぶしてやる」
保住はそう呟きながら、自分の席に腰を下ろした。
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