第2話 田口レーダーの性能



 人がまばらになった事務所は静かだった。時計の針は、夜の7時を回ったところだった。野原が帰宅したのを確認してから、田口は「財務に直接掛け合うのはどうか」と保住に提案をした。昼間の件がなんとも納得ができなかったのだ。


「財務に?」


「そうですよ。吉岡部長にお願いすれば予算なんて、なんとでもなるのではないですか?」


 二人は帰り支度をして事務所を出る。田口の言葉に保住は苦笑した。


「確かに吉岡さんは、お財布を握る最高責任者だし、なんとかしてくれるだろう。けれど。悪いが、おれはそういうやり方は好まない。——おい。お前がそんな腹黒い汚いやり方を提案してくるなんて珍しいな」


「な……。確かにそうですけど。でも、なんだか——」


 野原は一筋縄では行かないような気がしてならないのだ。


「こんな小さい案件に部長が関わるなんてことは皆無だ。そして、そういう立場でもない。これは現場の話だ。吉岡さんを巻き込みたくはないのだ」


「それはそうですが。なんだかここのところ、野原課長の動向が気になります」


「そうか?」


 ここまで嫌がらせのように呼び出しをされているというのに。保住は「あの人は課長として、やるべきことをやっているだけだろう」と言った。


 他の係と比べて、振興係の案件に口出ししてくることが多いというのに。保住はこれを嫌がらせとは捉えていないということだ。


 ——保住さんは、時に鈍感すぎるんだから。


 田口は眉間に皺を寄せた。


「度を越していますよ。あれは嫌がらせです。我々、振興係への」


「そうだろうか。もしそうだとしても、理由が見当たらないぞ」


「それはそうですが。客観的に見ても、頻度が増えていますよ」


 ——あの無表情男。なにを考えているか、わからないから不気味だ。


 田口は不気味な雰囲気を醸し出す野原を思い出していた。


「嫌な予感がします。野原課長って」


「悪意があるようには見えないが……」


「保住さん。いい加減に自覚した方がいいです」


「自覚ってなんだ?」


「ですから、あなたは人が良すぎるのです。みんながいい人とは限りません。騙されてました、ああそうですか、とは行きませんから」


「なんだよ。いつもだったら、単純なお前の方が騙される役回りだろう?」


「おれだって、人を疑うことはします。特に敵意を持っている人間はすぐわかります」


 田口レーダーに引っかかった男。


 野原せつ

 真面目で仕事には熱心に取り組む。非の打ちどころがないくらいの優良職員。朝は定時前に出勤してきて、微動だにせず書類の精査をしている。会議となると、開始時間十分前には出かけていく。議会での答弁も纏まっており、佐久間の時の「おっとうっかり、てへへ」というヘマはない。


 ともかく真面目という言葉に尽きる。にこりともせず、部下たちと無駄話をして談笑をする様子も見られない。


 唯一、彼のテリトリーに入っていくのは、総務係長の篠崎しのざき女史だけだ。若い職員たちは、彼が苦手みたいで、お茶を出したり、お弁当を届けたりする役割をやりたがらないのだろう。篠崎は好き好んでやっているのかどうかわからないが、比較的にこやかに野原の対応をしていた。


 田口には女性の気持ちはわからない。上司へのごますりのつもりなのだろうか? しかしそんな篠崎に対しても、彼が笑顔を向ける様子は見たことがなかった。


 田口は仕事をしながらも、着々と野原を観察していた。黒いところはなさそうだが、なぜ振興係の企画に文句ばかりつけるのだろうか。個人的な嫌がらせをしているのか。それとも、誰かの差し金なのか。


 いつもはのんびりしていて、鈍感なところがある田口だが、保住を守ると言う目的が加わると途端に戦闘モードだ。妙に目がランランとしている田口を見て、保住は呆れながら笑う。


「お前の考え過ぎだ。田口がそんなに妄想家だったなんて、知らなかったぞ……」


 そんなことを話して階段を降りていくと、一階で噂の野原とばったり出くわした。


 先に帰ったはずなのに、どこかに寄り道でもしていたのだろうか。噂をすれば……ということわざが、田口の脳裏を過ぎった。


「課長」


 思わず田口の呟いた声で気が付いたのか。野原が顔を上げた。その視線を受けてから、ふと隣に視線を遣ると、彼は一人ではなかった。見たこともない男と一緒だったのだ。


 パッと派手な紺色のスーツは、とても市役所職員とは思えない派手な出立だった。彼は、田口と保住を見据えていた。


 田口は咄嗟に「お疲れ様でした」と声を上げた。


 ——なにか言われる?


 無表情の野原は眉ひとつ動かさずに「お疲れ様」と答えた。その隣の男が今にもかかってきそうな錯覚に陥り、田口は思わず身構える。


 しかし、この状況を物ともせず。保住はいつもの調子で「課長、お疲れ様でした」と軽く挨拶をすると、さっさと職員玄関に向かった。


 それに倣って田口も頭を下げ、保住の後をくっついてその場から離れた。後ろから呼び止められることはなかった。


 内心ほっとする気持ちと疑念が浮かび、軽く動悸がする感覚を覚えながら歩いていくと、ふと保住が呟く。


「確かに。お前の言う通りかもしれないな」


「え? あの、野原課長と一緒にいた方は」


「市長の私設秘書のまきという男だ」


「私設秘書? なぜ野原課長がそんな人と?」


「そのままの意味だろう。雲行きは怪しい。野原は侮れないということだな」


 先程までの楽観的観測は却下と言わんばかりに、保住は険しい顔をしている。


 ——野原が市長と繋がっている? どういうことなのだ。


 なんだか胸がざわざわした。なにか起きなければいいが——。IDをかざし、庁舎から出た二人に会話はなかった。







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