第22章 陰謀

第1話 新たなる脅威



 季節は秋に差し掛かる。夏の暑さが嘘のようだ。盆地の冬は駆け足でやってくる。まだ定時過ぎだというのに、西の空は沈みゆく太陽で燃えるようだった。夕暮れの時間が早まるほど、もの寂しい気持ちになるものだ。


 十文字の企画がスタートしていた。星野一郎記念館のサロンコンサート。出足は上々だった。後輩が、一つまた一つと成功体験を積み重ねてくれることは、先輩として嬉しいとだということを、田口は学んでいた。


 矢部が抜けて落ち着かなかった職場の雰囲気は、すっかり落ち着いたかに見えていたのだが。


「保住」


 自分の名前でもないのに。田口は釣られてしせんをあげた。田口の隣でパソコンをいじっていた保住は、面倒だと言わんばかりに顔を顰めてから、「はい」と返事をした。


 彼を呼びつけられる人物は、この部屋には一人しかいない。今年度から配属になった課長の野原だ。


 のろのろと席を立ち、保住は歩き出す。田口はその先を見つめた。


 文化課は一つの広い部屋に、各係ごとに纏まってつくえを並べていた。課長席は、総務係の近くに配置されているので、振興係からは幾分距離がある。


 昨年度まで、その席には現教育委員会事務局長の佐久間が座っていた。


 佐久間は人を呼びつけるような男ではなかった。彼は用事があると、自ら足を運ぶ。いつ何時でも笑顔を絶やさず、呑気な口調で話す佐久間は、激務の合間の癒しのような存在であった。


 ところが、野原は佐久間とは全く真逆な人間だった。無口で、無愛想。挨拶をしてもニコリともしない。抑揚のない話し方には、なんの感情も感じられなかった。


 今まで色々な人間と出会ってきたが、こんな男は初めてだった。どこか、変わった雰囲気。なにが変わっているかと問われると、田口にはどう答えたらいいのかわからないが、なんとなく近寄りがたいというか、なんというか——。


 ——どこが変なんだろうか?


 じろじろと見たこともないのでよくわかっていないが、野原は他の誰とも似つかないような不思議な雰囲気を漂わせていたのだ。


 年の頃は保住より少し上だろうか。彼の実年齢は知らないが、田口の見立てが正しいのだとすると、あの若さで課長まで昇るのは難しいはずだ。


 保住が係長の席に座っているのも「早すぎる」という声が上がっているくらいなのに、彼の場合はそんな陰口を叩かれていないのだろうかと疑問だ。

 

 野原の目の前で、首をかいて真面目に対応していない様子の保住を眺める。


 配属されて半年が経過し、野原もこの部署の仕事を把握してきているのだろう。「一々細かい男だ」と、昨晩も保住がぼやいていたことを思い出す。すると、谷川がそっと渡辺に話かけた。


「おれの予算書の件だと思います。さっき出したばっかりですから」


「最近、課長がうるさいよな」


 渡辺は眉間に皺を寄せた。野原は自分が理解できるまで、突き詰めてくるタイプ。つい先日も、田口の提出した企画書について揉めたばかりだ。


 企画書を挟んで彼と話をしてみると、なるほど。頭はいいようだ。言いたいことはよくわかるし、効率性重視だ。しかし。保住とは違う。彼の話には心がない気がしたのだ。


 渡辺と谷川の会話を受けて、田口はそっと保住に視線を戻した。細面の蒼白な顔色の野原は、眉一つ動かさず保住に不満を述べているようだ。それを受けて応対している保住も機嫌が悪そうだ。


 議会も控えているせいで、野原はピリピリしているのだろう。議会中、直接答弁を行うのは教育長だが、現場の細かいことを纏めて提出するのは、課長に任されている。事前に質問事項が出されるから、回答をしっかり準備しておく必要があるのだ。現場の決済権限者である課長の大事な仕事だ。


 野原という男は、出来損ないの経験年数ばかり重ねた男はないことは確か。あの若さで課長の席に座るだけのことはある。保住が苦戦するのは珍しいことだ。


 しばらく言葉を交わした二人だが、野原がなんとか納得したのか。一瞥をくれてから保住が戻ってきた。


「係長、すみません。おれの予算書ですね」


 谷川は申し訳なさそうに頭を下げるが、保住は気にしてない様子だ。


「いや、書類の責任はおれにあります。谷川さんのせいではありません」


「それにしても。なにに引っかかったんです? 課長は」と渡辺が口を挟む。保住は「予算の割り振りです。無駄な割り振りだそうです」と言った。


「ともかく予算削減しろだそうです」


「そんな」


 田口も作成の過程は見てきた。予算は削りに削ったはずだ。


「ともかく、もう一度練り直せとのことです」


「はい」


 不安そうな谷川の表情に「大丈夫ですよ」と笑顔を見せる保住。野原とは違い、保住はこういうところでの気遣いができる男だ。だから田口は好きで堪らなくなるのだが——。


 なんだか嫌な予感ばかりがした。田口は胸がざわつくのを覚えて、落ち着かない気持ちになった。





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