第14話 犬の価値
会場に入る直前。遅れてきた澤井に腕を掴まれた。
「なんです」
不本意だと眉間に皺を寄せて見せるが、澤井は気にしない。
「お前はおれの隣だ」
澤井はそれだけ言うと、保住の腕を引いて会場に足を踏み入れた。
10年目の職員たちのプレゼンは、まあそこそこの出来が多かった。しかし。似たり寄ったりの内容に、飽き飽きとしていた頃、田口たちの出番が回ってきた。
星音楽職員の安齋の一言に、会場の雰囲気は一変した。
天沼。大堀……。保住は頭の中で澤井と吉岡から渡されたリストを思い出していた。そして最後に。田口が頭を下げた。長身で大柄な彼が、フロアに向かって真っ直ぐに頭を下げたのだ。
フロアは静まり返り、司会者も呆気に取られていた。保住は口元を緩める。田口という男を誇らしくさえ思ったのだ。
「どうだ。保住」
澤井は保住を横目で眺めてきた。
「どうって。どういう意味です?」
「だから。このメンバーと推進室をやってみる気にならないか」
——そういうことだったのか。
保住は目を細めて澤井を見返した。これは、自分のためだけに企画された茶番。来年度から始まる「市制100周年記念事業推進室」メンバー候補を集めて、プレゼンをさせたのだ。安齋、大堀、天沼。そして田口——。
「メンバーはおれの他に三人でしたね」
「この四人から三人選べ。一人はおれがもらう」
「——あなたが?」
「秘書室の奴らが使えないからな。一人欲しい」
「おれが選ばなかった人間が、あなたの
澤井は口元を歪める。
「田口でもいいぞ。寄越せ。可愛がってやる」
「それって脅しですか」
「素直な気持ちだ。正直、あいつは見込みがある。いろいろなものを差し引いてもだ」
澤井が素直に人を褒めるなんて珍しい。いや——初めてか。
「お前だって見ただろう。最後のあの真面目さ。まっすぐさ。素直さ。あれでこられたら、どんな人間でも簡単にノーとは言い難い」
保住は先ほどのプレゼンを思い出す。田口にまっすぐに見据えられて、真剣な目で見つめられたら心動かない人間は余程の馬鹿だろう。
「敵いません。あいつには」
「そうだな。姑息な手を使ったら負かせる。だが、正攻法だと誰も敵わん」
「……正直、悩んでいました」
「悩む?」
「吉岡さんに、『プライベートも仕事も一緒だと行き詰る時が来る』と忠告されたのです」
「ふん。そんなくだらないこと。お前でもそんな気を回すか」
「回しますよ。それだけ、おれにとったら。あいつが、大事なんだと思います」
素直な気持ちだ。田口には直接言えないことだけど——。
「ですが。今日のプレゼンを見てしまうと、やはりと思います」
「それはそうだ。出し惜しみしてどうする。ベストな状態でなければ、この事業は乗り切れないぞ」
「ですね……。あなたのおっしゃる通りだと思います」
保住は少し思案するかのように言葉を切ったが、すぐに澤井に視線を戻した。
「決めました。推進室を一緒にやっていくメンバーを」
「そうか。後で人事課長の
「ありがとうございます」
保住はそう呟いてから、プレゼンを終えほっとしたように安齋たちと笑顔を見せあっている田口を眺める。
——大きく成長したものだ。いや。そもそもの資質だ。
田口の持っているいいところが伸びてきているのだろう。農振係では思うように実力が発揮できなかっただけだ。ここに来て、彼の能力は上向き。上り調子だった。
「本当。うかうかしていると追い越されますね」
保住の言葉に澤井は愉快そうに笑った。
「お前でもそんなことを気にするのだな」
「そうみたいですね。初めてです」
「いいことだ。梅沢にはお前を磨いてくれるライバルと呼べる男はそういない。しかし、後ろからは迫ってくるぞ。後輩たちに追いつかれぬよう、必死に前だけ向いて走り続けることだな」
「副市長は、そんな思いを抱いたことがありますか」
「お前の父親には敵わなかっただろう?」
最後のグループのプレゼンもなかなかいい物なのだろうが、田口の最後の押しに敵うものはないということか。なんだか色あせて見えて、気の毒にさえ思う。他の係長たちも同様の感想のようで、瀬川も手持無沙汰に資料をいじくったりしていた。もう終わり——そんな雰囲気だった。
***
「二日間、どうもお世話になりました」
天沼の言葉に他の三人も頭を下げた。
「いい勉強だった」
「お互いの得意なところも理解できたしね」
「このメンバーで仕事をするなんてことは、まずありえないと思うが……なかなかいいチームだった」
安齋の言葉に一同は目配せをして笑った。このメンバーなら大概のことはできそうだ。
「明日からはそれぞれの部署でまた頑張ろうね」
大堀の笑顔は場を和ませる。荷物を持ち上げてそれぞれが帰途に就く姿を見て、田口は天沼を呼び止めた。
「色々ありがとう」
「え? なにもしていないけど?」
「そんなことはない。おれのネガティブなところを初対面なのに、聞いてもらった」
「それも田口の一部でしょう? 自分を好きになってあげなよね。田口のプレゼン、あれが一番効いたね」
「そんなことは……」
「田口のことを引き出してくれる係長さん? だっけ? いい人じゃないか。ちゃんと着いていけよ」
「もちろん。ずっと着いていく」
「いい心意気」
ぽわんとした笑顔を見せてから天沼は手を振った。
「じゃあね」
「またどこかで」
安齋や大堀も帰途についている。
——やっと帰れる。日常に。長かった。
荷物を抱えて、自分の車に乗り込む。保住からメールが届いていた。
『お疲れさま。今日は直帰していい。夕飯の準備はいらないから、ゆっくり休んでおけ』
それを見て軽くため息を吐く。
「おれのプレゼン、何点だったのかな?」
——結構、頑張ったけど……。
結局はぐだぐだ言っても仕方がないと判断。ともかく頭を下げただけのダメダメプレゼンだったと自己反省だ。
「おれって芸がないんだよなあ……。まだまだか」
大きくため息を吐きなおしてから、田口は車にエンジンをかけた。長かった研修が終わったのだった——。
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