第10話 自分の価値
突然現れた男は、田口たちのグループの企画内容を盗み見るつもりらしい。田口は慌てて腰を浮かしたが、それよりも早く、安齋はノートパソコンを閉じた。
「人のグループの情報を盗みに来るとは、本当に卑劣な奴だな。
神野と呼ばれた男は「ちぇ、ばれたか」と両肩をすくめて見せる。いつも不機嫌な顔つきの安齋はますます険しい表情を浮かべている。どうやら安齋は、この男が嫌いらしい。彼は両腕を組むと、神野を睨みつけた。
「お前のそういうところが気に食わない。人の好さそうな顔をして、裏ではこそこそと。本当にいけ好かない奴だ」
「お前に言われたくないね。安齋だってそうだろう? 営業スマイルとは裏腹に、悪の帝王張りの腹黒さ」
「だからなんだ。悪いか。おれはその本質を隠すつもりは毛頭ない。お前と違ってな」
「開き直るのか?」
二人が言い合いになりそうなところに、人事課の研修員が走ってきた。
「他のグループからの情報収集は禁止ですよ。席に戻ってください」
「ちぇ~。面白くねえの。——いこうぜ。
神野は、一緒に連れ立ってきていた男性職員に声をかけてから、文句をぶつぶつといいつつ、踵を返した。神野とは対照的に、少しおどおどとしている男は、ぺこっと頭を下げてから神野の後をくっついていった。そんな二人を見送ってから、さっそく大堀が安齋に尋ねる。
「あの人、誰?」
安齋は答えないのではないかと思ったが、意外にも素直に神野のことを説明してくれた。
「監査委員事務局の神野だ。大学が一緒だったというだけで、なにかと絡んでくる。おれはなんとも思っていないのだが、妙におれに対してライバル心を燃やしているらしい。あいつは、昔からずるがしこい奴だ。お前たちもあいつには関わらないほうがいいぞ」
「同期とは言え、いろいろな奴がいるんだな」
田口は心底そう思った。今までは同期を意識したことなどなかった。しかし。昨日から一緒にチームを組んでいるこの三人は個性的。意識しないわけにはいかない。
田口は自分の隣で「ああいうタイプが出世するよね」と笑っている天沼の横顔を見る。
彼は見た目が優しげなので、おっとりしているようにも見受けられるが、時たまどきっとするようなコメントを発する。
たまに一人で思いが暴走する時があるが、それは彼の並外れた情報収集能力と、それらを統合して意味づけすることが出来る能力の賜物だろう。そう、彼の特技は見えない部分を妄想で補うことができるという事。
しかし、たかが妄想ではない。妄想の根拠となる情報の精度が高いため、予測があながち的外れでもないということだ。
その能力は人との関わりにも生かされているようだ。彼は、四人の中で一番気遣って上手く立ち回っている男だと思った。トップには立たないが、セカンドマンとしては一流といったところだろう。
それから。田口は目の前の大堀を見た。
彼はあっけらかんとして明るい。グループのムードメーカーだ。面倒なことは段々と飽きてくる様子も見られるが、なにせ数字に強い。さすが財務担当者だ。お金の計算をさせたら、 精密機器並の正確さを誇る。
それに、その甘えたような態度を駆使して、人に仕事を押し付ける能力も素晴らしい。いつの間にか彼にいいように使われていることも多い。これもある意味、彼の能力だろう。
最後に斜め前に座る安齋。仏頂面で愛想もないが、初対面であるこのチームをまとめてくれている。自分に自信があるのか、意見もはっきりと言うし、なにせ面倒なことは嫌いだ。要点だけを的確に述べ、人の話をまとめるのも上手だ。ともかく無駄がないと言うコメントに尽きる。
あんな神野みたいな男に横槍を入れられても、マイペースでぶれない姿勢には脱帽だ。
——では自分は?
いつも仕事をしているフィールドでは、中堅で後輩の十文字の世話も四苦八苦だ。保住や渡辺たちのサポートだって、スムーズに行えているかと問われると怪しい時も多い。何年経っても保住の手を煩わせることばかりだ。この同期のメンバーたちと比べて、自分にはなにがあるというのだろうか?
なんだか、自信がなくなった。こういう同期の中に置かれると、自分が劣っているところが目について仕方がない。今の自分を形作るものは、単純に自分の能力だけではない。これは保住という上司に引っ張り上げられているだけの話だ。
——自分の価値は? 自分がいる意味ってなんだ?
なんだか迷路に迷い混んだ時の不安みたい。胸がざわざわと波打ち、急に足元が覚束ないような不安定な感覚に飲み込まれそうになった時——。
「田口?」
ふと天沼の声に視線を向けた。彼は思議そうな顔で田口を見ていた。
「大丈夫?」
「えっと。なにが?」
「いや。ぼんやりしているからさ。体調悪い?」
大堀と安齋は予算の部分の話をしているようで、天沼と田口の会話には気がついていない。
「いや。……なんだか、同期とこうして話をするなんてことがなかったから。なんか、おれ。置いていかれてる気がして」
「どういうこと?」
「いや。おれは同期というものを知らなすぎた。みんな、十年という期間、職員として培ってきているものは、とてつもなく大きいのだな。それに比べて、おれは……」
「なにそれ?」
彼は目を瞬かせてから苦笑いをした。
「そんなこと言ったら、おれなんかもっとなにもないじゃない」
「そんなことはない。天沼は気配り上手で、人を活かすのがうまい」
「そう? そんな風に見える?」
天沼は笑顔を見せる。そして真面目な顔で田口を見つめた。
「おれもそう思う」
「え?」
田口から視線を外し、天沼は瞳を細めて前を向いた。
「おれは出世して、バリバリ仕事をするのは向いていないと思うんだよね。自分でも自覚していることだけど、誰かのサポート役を任されると、思いっきり能力発揮できるって思うんだよね」
彼は自分で自分のことを良く理解しているようだった。
「人の前に立って、みんなを引っ張っていくなんて、おれには似合わない。意気地がないし、決断力もない。優柔不断だからね。誰かが決めてくれたことをサポートするのはすっごくできるんだけどね……」
「天沼」
「そういうもの。別にそれでいいと思っているし」
「上に行きたくないのか」
「別に。おれは自分の能力が発揮できる場所に置いてもらえるなら、嬉しいな」
彼はそう言うと、にこっと笑顔を見せた。
「そういう田口は、自分のことをどう見ている?」
——自分か。自分は……。
「根気はあるのだと思う。どんな仕事も投げ出さない。必ず最後までもっていくことを目指している。だけど……人と関わっていくのが苦手だ。今の部署に来て、引っ張り上げてくれる人と出会ったからここまで来たが。正直、自分がどんなタイプで、どういう立ち位置が得意なのか分からない」
「そっか……。おれは10年も仕事をして、やっと自分ってどんな人間なのか、この市役所でどんなパーツを担うのか見えてきた気がするけど、自分探しが一番難しいよな」
天沼は自分よりも何歩も先を歩んでいるのだと思う。今回の研修を受けるまで、田口はそんなことを考えたこともなかった。
「今まで自分探しをしようなんて思ったこともない。目の前のことで手一杯だった。『実家に帰ろうか』なんて、そんなことばかり考えてきたような気がする。仕事もできないし、人との関わりも下手。いいところなんてないと思っていた」
「田口は自己評価が低いんだね」
天沼は苦笑した。
「ネガティブ人間だからな」
「そうは見えないんだけどな~。まだ二日目だけど、おれの田口の印象言ってもいい? 田口は真面目一徹。昔ながらの日本人って感じがするな〜。昭和の人間って感じ? ズルはできないし。正攻法を推し進めていくタイプ? 堅物って感じかな?」
「そうだよな。そうなんだよな……」
「でも、それって悪くないと思うけどね」
「そうかな」
「そうそう。それっていいじゃない。田口みたいな人間って、そういない。きっと根気もあるし、人よりも時間はかかるのかも知れないけど、そういう人が何事かをやり遂げるって思うけどね」
——自分が? 何かをやり遂げる? そんなことができるのだろうか。
「そうなったら、セカンドマンのおれを使ってよね。協力するって」
にこにこっとしている天沼には敵わない。「大丈夫。田口ならできる」と言ってくれる保住みたいだ。田口は少し恥ずかしくなって顔が熱くなるのを感じた。すると安齋からの声が飛ぶ。
「そこ! 話し合いにちゃんと混ざれ」
「ごめんごめん」
「すまない」
「大堀が予算の概算を提案してきた。話を聞け」
「了解」
二人は安齋たちに合流し、話し合いを進めた。
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