第7話 眠れぬ夜


 田口がいない夜は、もしかしたら初めての経験かもしれない。


 いつも朝から晩まで一緒にいる。どちらかが飲み会や、会議で遅くなってしまうことは多々あるが、午前様になろうとも、必ず帰ってくるものだ。


 一緒に住むようになって一人暮らしの頃の感覚が鈍っているようだ。一人で過ごしていた夜が思い出せなかった。仕事以外には無頓着な性格が、こういうところにまで影響をするものだろうか。


 ——夕飯はどうしようか。


 キッチンに足を運ぶ。冷蔵庫を覗き見ると、そこには焼かれた肉と、生野菜のサラダが入っていた。どうやら、田口が今朝準備していったらしい。


 保住はその皿を手に取る。彼の思いはとても嬉しい。けれど、なぜか食欲が湧かなかった。


 彼がここに転がりこんでくる前は、当然の如くこうして一人で過ごしていたはずなのだ。なのに思い出せない。これもまた田口という人間と一緒にいるようになって知った感覚。


 今朝、「研修頑張れ」と送り出したばかりなのに。まだ一日もたっていないというのに。田口がいない生活は妙に長く感じられた。


 なんだかそわそわして居心地が悪かった。口煩くてお母さんみたいな男がいないともの寂しい気持ちになるものだった。

 

「寂しいのか?」


 ——変な感じ。


 自分の気持ちに気がつくと、なんだか心がざわざわした。


 ——自分には田口が必要なのだ。それは、きっと、好きだから? 好きってなんだ。大事ってこと? 大事ってなんだ。……良くわからない。


 だが確実に言えることは、田口がいない生活は考えられないということ。田口は当然に自分の隣にいるべき人間なのだ。


 こんなにも人は、誰かに依存するものなのだろうか。今まで経験したことがないことだから。人に頼って寄りかかって生きていくなんて到底、信じられないことでもあった。


 ——それなのに。


「とんだ腑抜けに成り下がった気分だな」


 保住は自嘲気味に笑った。それから「だが悪くはない感覚だ」と呟いた。


 テーブルに皿を載せ、それからワイシャツのボタンを外そうと手をかけるとスマートフォンが鳴りだした。


 時計の針は7時過ぎ。個人的なスマートフォンに連絡を寄越すのは、母親くらいなものだ。「また面倒ごとか」思いながら持ち上げると、発信元は澤井だった。とんだタイミングだ。なにかを見計らっているかのようで気味が悪かった。

 

 ——田口がいないことを知っているのか。知らぬふりで無視を決め込むか。


 しかしいつまでもその呼び出し音は鳴り止む気配がない。こういう時に、留守番電話設定をしておけば良かったと後悔した。


 保住は留守番電話が大嫌いだ。録音された声が耳障りに思えるのだ。用事があるなら、またかけて寄越せばいいと思うのだが。今日ばかりは後悔だった。いつまでも鳴り止まないスマートフォンを見つめて、通話ボタンを押した。


「はい。保住です」


「遅い。居留守を決め込むつもりだったのだな」


「当然です。勤務時間外まで、あなたと会話する義理はありません」


「田口がいなくて寂しい思いをしているかと思ってな」


 クツクツと笑う澤井。保住は言葉に詰まった。


「……冗談はやめてください」


 保住の息遣い一つで勘づいたのだろう。澤井は愉快そうに笑い声を上げた。


「図星か! しおらしくていいではないか。笑えるな。保住」


「……からかうために電話をしてきたのであれば、切ります」


 むっとして声を潜めると、澤井は愉快そうに笑いを含んだ声で続ける。


「業務のことだ。明日の午後は時間をあけておけ」


「どういうことなのですか?」


「詳しいことは明日伝える。だが最優先事案だ。絶対にあけておけ」


「上司命令ってわけですか。会議が入っていましたが、別な者に代わってもらいますよ」


「そうしてくれ」


「要件は以上ですか?」


「そうだな。例の件。ある程度決めたのか」


 例の件——。


「——人事の件ですか。そんな暇ありませんよ。自分の仕事で手一杯なのに。人の部署のリサーチまで、できるわけないじゃないですか」


「だから、こちらでやるから指示して来いと言っているのだろう』


「そう言わても。皆目見当もつきませんから」


「やる気の問題だ」


 そう言われるとそうだろう。大して興味もないから後回し。そういうところを澤井は見抜いているのだ。


「そうですね。あなたの言う通りだ」


「認めるのか。素直でよろしい。お前がやる気が起きるように考えてやろう」


「じわじわ攻め立てるのはやめてくださいね。おれ、打たれ弱いです」


「知っている」


 澤井との会話はキリがない。保住はため息を吐いた。


「明日は楽しみにしていろ」


「明日の用事はその件なのですか」


「明日になればわかる」


「意味深な言葉ですね。気になって眠れませんよ」


「そういう質でもないくせに。では、明日」


「失礼いたします」


 保住はスマートフォンをテーブルに置いた。一体、なにを考えているのか。澤井の腹の中はよくわからない。手駒の一つである自分と、大局を眺められる位置にいる彼とでは、物事の理解の度合いが違いすぎるのだ。澤井を負かしたいと思っているわけではないが、いつも翻弄されるのは悔しいものだ。


 こうして、いつまでも乗り越えられないのだろう。父親も然り。澤井も然りだ。立場も年齢も追いつけない。


 一人で過ごすと悪いことばかり考える。田口と過ごしているときは自分の負の部分を考える時間はない。だから心地いいのだ。


 ——そうだな。一人でいるときは、こうして自分のことばかり思い起こし、父親のことを思い起こし、嫌な気持ちになるから仕事ばかり夢中になっていた。


「よくないことだ」


 過去を振り返るなんて、バカげていることを理解しているのに。やめられないのだ。


 保住はふとテーブルの上にある皿を見た。研修で緊張している朝。自分のことを心配して作ってくれたのだろう。


「本当に。お前には参るよ。おれはお前には敵わない」


 保住は口元を緩めた。


「くそ。いじけてなんかいられるか! 飯だな。食べて、風呂入って、寝るぞ! そうすればお前が帰ってくる」


 独り言なんて馬鹿げてることを理解しつつ、保住は両手で頬を叩いた。もうすっかり澤井のことは頭の片隅に追いやられ、田口のことで支配される。


「お前なんかいなくたって。大丈夫なんだからな」


 保住はぶつぶつと文句を言いながら、夕飯の準備を始めた。








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