第3話 田口くんの悪口大会?



「ですから! あいつは本当にいい奴すぎて、どうしようもないと思うんですよ」


 渡辺はビールのジョッキを机に叩きつけた。その隣では、谷川は「そうそう」と首を縦に振った。


「こんな性根腐ったような人間の巣窟で、生きていくのは大変ですからね」


 保住の隣に座っている十文字は顎に手を当てると二人の意見に賛同していた。


「確かに。誰かがそばで支えてあげないと、そのうち、かわいそうなことになりそうですね」


 田口の悪口大会だと言っていたはずなのに、三人が口にするのは田口のことを褒めて心配している言葉ばかり。保住は苦笑した。


 ——悪口なんて一つも出ないな。


 田口という男は、一見不愛想に見え、とっつきにくいようにも受け取れる。しかし、根は素直で優しい。周囲の人間を動かす力を持っているのだ。保住はまるで自分のことを言われているような気持ちになり、内心嬉しくなった。


「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。田口だって一人前の男ですから。ここに来る前はずいぶんと苦労もしたみたいだし。打たれ強い男だと思いますよ」


 しかし渡辺は首を横に振りながら「係長はわかってませんよ」と言った。


「あいつは結構、打たれ弱くて、いじけるんです。いいですか? 係長がしっかり見てあげないと」


「おれ?」


「そうです。係長が面倒みてやらないと」


「そうそう。係長以外の誰が面倒を見るっていうんですか」


「そんなこと言われても……」


 田口の悪口大会改め、田口を褒める会改め、田口の面倒を見る人を決める会のような流れになっている。保住は苦笑した。


 吉岡との飲み会を控え、昨日から元気がなかった田口。それをこの三人は気づいていて、保住にちゃんと面倒を見るように、と言いたかっただけらしい。


 ——どんくさいからな。おれは。田口のちょっとした変化に気づいてやれていないのだ。


 保住の心の機微を、少しも見逃さずフォローしてくれる田口に、保住はなにも返してやれていないということに気が付き反省した。仕事となると、夢中になってしまって周囲が見えないことも多い。彼には申し訳ない気持ちでいっぱいだ。


 昨晩もそうだ。あんなに一緒に風呂に入ることを楽しみにしていた田口を残して、自分は先に寝落ちしてしまったのだ。今朝になって平謝りをしたが、田口は「気にしないでください」と笑っていた。


 彼の笑みの裏に隠れている気持ちを保住は察することができない。もともと、人の気持ちを読み解くことが苦手な人間だ。腰を据えて、彼と向き合っていかないと。きっと、いつか。田口は自分に愛想尽かしてしまうだろう。


 ——おれも努力しなければならないのだ。あいつの優しさに甘えてばかりではいけない。


 ぼんやりとそんなことを考えていると、十文字がまた、保住の頭をぽんぽんと撫でてきた。十文字は酔うとボディタッチが多いことを思い出した。


「おい」


「すみません。だって、係長って可愛いし」


「また」


 谷川が口を出す。


「田口がいないからって。怒られるぞ。ばれたら」


「だって。いつも田口さんに邪魔されるじゃないですか。今日は田口さん、いないし。いいじゃないですか。ちょっとくらい」


「お前ねえ」


「十文字は飲むとたちが悪いからな」


 保住はぼそっと呟いた。


「酷いです。そんな……」


「だって本当のことじゃない」


なのに。触れると毒でやられます」


「だから。の意味がよくわからないって言っているのだ」


「ほわほわは、ほわほわです!」


 十文字は不意に両腕を広げた。保住に抱き着こうという魂胆らしい。田口ディフェンダー不在だ。渡辺と谷川は慌てて田口の代わりにそれを阻止しようと前のめりになった。と、その瞬間——。長い腕が伸びてきて、十文字と保住を引きはがした。


「へ?」


「は?」


 一同はぽかんとする。


「おれがいない間に。なにをしているのですか。あなたたちは」


 心底怒っているときの低い声。一同が顔を上げると、そこには田口がいた。田口は保住の腕を捕まえて引き寄せ、十文字の顔に手を当てて引きはがした姿勢だ。


「ぐへ」


「十文字。——覚えておけよ」


「す、すみません~……」


「な、なんで。田口が」


「すみませんね。おれもここで飲んでいたもので」


「え!? いなかったじゃん~」


 確かに。入店したときには田口の姿はなかった。渡辺や谷川は口々に文句を言うが、保住はふと奥の座敷から吉岡が姿を見せるのを確認して納得した。吉岡との飲み会——という時点で、赤ちょうちんで飲んでいると予測できたはずだが。失敗した——と保住は思った。


 吉岡は千鳥足だ。かなり楽しく飲んでいたようだ。彼の後ろからは若い職員が顔を出す。栗色の髪の毛に、くりんとした瞳。愛らしい容貌をしている。


 ——財務部の大堀。確か、吉岡さんのリストに名が載っていた。


 保住が任されることになる秘密のプロジェクトのメンバー候補の一人だ。確かに、こうして吉岡が連れ歩くのだ。資質は間違いないということなのだろう。


「なんだ。お友達がいたのね。文化課振興係のみなさんだよ。大堀」


 大堀と呼ばれた男は、「へえ!」と素っ頓狂な声を上げて笑い出した。


「楽しそうな部署ですね! 吉岡さん。おれ次はここの部署に配置してください」


「そんなこと言わないでよ~。おれのサポートいなくなっちゃうじゃない」


 渡辺たちは恐縮して、直立不動だ。吉岡に「敬礼」のポーズをて見せる。吉岡は「勘弁してよ」と苦笑いだ。そんな騒ぎを後目に保住は田口に囁いた。


「ここで飲むなら言っておけよ。来なかったのに」


「飲み会に行くとは言っていなかったじゃないですか」


「突然に決まったのだ。仕方がないだろが」


ですね」


「そういう意味じゃ……」


 口ごもっていると、田口は保住の腕を引く。保住は慌てて近くにあった荷物を抱え込んだ。


「すみませんが、お先に失礼します」


 彼はお金をテーブルに置くと、さっさと赤ちょうちんから出ていく。後ろから、吉岡の声が聞こえたが、そんなものは関係ない。田口も相当酔っているようだった。保住は後ろを気にしながらも、目の前に見える田口の大きな背中を見つめていた。


 顔が熱い。酔いのせいだけではない。たくましいその彼の手が、自分の腕をつかんでいる場所が熱く感じられる。胸が高鳴る。田口の姿を目の当たりにしただけで、こんなにも嬉しいものか。


 ——おれは。こいつと一緒にいる時間が好きなのだ。


 いつも視線を上げると隣に田口がいてくれる。それだけで保住の心には安寧がもたらされるのだ。吉岡は距離をとれという。しかし——。


 保住は自分の気持ちに気が付いて、恥ずかしい気持ちになる。そんな気持ちを押し隠すように「乱暴に引っ張るな」とぶっきらぼうに声を上げて見せる。だが、田口は怒っているようだった。「いいえ。怒っています」と言って、歩みを止めることはない。


「お前抜きで飲み会になったのは悪いが、別にお前の悪口を言っているわけでもなくて……」


「そういう問題ではないです」


「え? なに?」


 銀行裏の路地に入ったところで、突然、立ち止まった田口は保住を壁に押しつけた。


「何度も言わせないでください」


「た……、っん」


 なんの前触れもなく、田口に唇を持っていかれる。


 ——こんなところで?


 彼を押し返そうとするが、ビクともしない。しかも、その手を取り上げられ、拘束されてしまうと、全く成すすべがない。冷たい壁に背中を預けたまま、田口のキスをただ受けるだけだ。


 ざらついた彼の舌はアルコールの味がした。どちらのものとも言えないくらい混ざり合って、頭の芯がぼーっとしてくる。目を瞑って、ただそれを素直に受け入れた。

 保住が大人しくなったのを確認したのか。田口はそっと唇を離した。


「人に触れさせてはいけません」


「田口……」


「おれ以外の人に触れさせないでください」


「それは。もちろんそうだ。別に触れられて喜んでいるのではないのだが……」


「あなたにその気がなくても、です」


「田口」


「怖いんです」


「怖い?」


「あなたを失う日がくるのではないかと。不安で、心配で。怖いのです。——春には部署異動の可能性も高いじゃないですか。やっぱりそばにいられないと不安なのです。おれ、弱虫だから。あなたなしではいられない」


 田口の目は縋るようだ。保住は軽く微笑んで、それから田口の頬に両手を添える。


「そう不安がるな。おれまで不安になる。そんなにもおれとのことを考えてくれているというのは嬉しいことだ。なにも怖がることはないのだ。田口」


「すみません」


「謝ることでもなかろう。おれはどこにもいかない。お前の側にいる」


「保住さん」


 不安げな田口を慰めるかのように、保住はそっと彼に口付けた。保住からのキスは滅多にないせいか。田口は狐につままれたように目を瞬かせていた。


「すまない。嫌だったな」


「い、嫌なんて!」


 田口はぎゅうぎゅうと保住を抱きしめる。


「痛い! 田口!」


「嫌です」


「な、」


「離しません! おれは絶対に保住さんを離しません!!」


 田口は雄叫びにも似た叫びを上げて走り出す。あれで結構、酔っていたらしい。いつも奥ゆかしい雰囲気は微塵もない。


 腕を引っ張られて、「うおーっ」と走るこの男には付いていけない。走ると酔いも回るのか、目眩がしてきた。田口銀太と言う男と付き合うのはなかなか難解であると思いつつ、保住は空に浮かぶ月を見上げた。


 ——なんだかんだいっても、おれはこれが好きなのだな。



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