第2話 そばで支えたい
「今日は珍しいですね。田口が早く帰るなんて」
キーボードを叩いていると、渡辺が不意に声を上げた。保住の集中力はそこで切れる。「そうですね」とぼんやりとした声色で返す。視線を上げると、彼は両腕を組んで「うーむ」と唸った。
「あいつ。いつも遅くまで頑張っているから、たまにはいいですけどね。仕事ばっかりの人生じゃ、つまらないものです」
彼の言葉は保住自身にも向けられているようで、なんだか居心地が悪かった。保住は苦笑をしてから視線を伏せた。その様子に気がついたのか、渡辺は「あ、係長のことを言っているのではないですよ」と両手を振った。
——いや。多分。その通りなのだろうな。
保住は肩を竦めて見せた。自宅に帰っても仕事のことばかりの自分だ。田口は一緒に暮らしていて楽しく思ってくれているのだろうか。
——こんなおれなど。なんの取柄もない人間だ……。
保住は「そろそろ帰りませんか」と明るい声で言った。渡辺、谷川、十文字は「そうですね」と口々に言った。
「今日中なんて仕事はそうありません。いつまでやっても終わらないのはいつものことです」
「ですね。十文字は?」
保住の問いかけに、彼も頷く。
「帰ります。おれも」
「そう。じゃあ、帰りましょうか」
一同は大きく頷いてパソコンの電源を落としてから、帰り支度を始める。すると谷川が思いついたように声を上げた。
「係長。たまには田口抜きで飲みに行きませんか」
「え?」と保住は声を上げる。しかし渡辺も両手を叩いた。
「お! それいいアイデアだね~。いいじゃないですか。田口の悪口言いたい放題ですよ。係長」
渡辺は人差し指を立ててぶりっ子ポーズをとって見せた。田口の悪口大会と、そのポーズがミスマッチで笑える光景だった。十文字は「悪口大会って……」と呟いてから保住を心配気に見ている。保住は敢えて「それはいい」
と答えて見せた。
今日は田口がいないから、久しぶりに一人でのんびり……そう思っていたところだったが。こうなってしまうと、断るのは得策ではないと思う。渡辺や谷川が押すのだ。田口への思いがなにかあるのかも知れない。この部署のリーダーとしてここは聞いておいたほうがよさそうだと思ったのだ。
「わかりました。おれも参加します」
十文字は保住のことを心配してくれているのだろうか。恋人の悪口をぶつけられるのは、確かにいい気持ちにはならないものだ。十文字とは、こう見えて繊細で、周囲の人への気遣いができる男だと思った。
その間にも帰り支度を済ませた渡辺たちは「さあ行きましょうか」と嬉しそうに笑みを見せた。保住と十文字は二人に連れられて、事務所を後にすることになった。
***
「大堀くんは本当に気が利くんだよね。そばで仕事をしてくれると重宝するんだよね」
吉岡はほろ酔い気分になっていた。大して飲んでいるわけでもないが、どうやらアルコールには強くはないらしい。悪態をつくわけでもない吉岡の酔い方は、なんとも微笑ましい光景に見えた。
褒められた大堀は酔いのせいも相まって、頬を紅潮させた。
「止めてくださいよ。褒め殺しです。なんだか、そこまで言われると
「そんなことないよ。素直な感想なんだけどな」
入庁してから怒られて過ごすことが多かった。だから褒められるとなんだかくすぐったい気持ちになるのは理解できた。社会人になって、褒めてくれる上司など、そう数はいない。大堀もそうだったのだろう。きっと吉岡にこうして褒められて、才能を伸ばしているのだろうということが容易に想像がついた。
「おれも係長に褒められると耳を疑います」
「保住は滅多に褒めないの? だめだな~。ちゃんと言っておくね」
「いえ——そういうのでは。本当に褒められるようなことはできませんから。しかしたまに褒められると、とっても嬉しい気持ちになります」
田口の言葉に吉岡は目を細めた。
「わかるな~。その気持ち。おれもそうだったな」
「え~。部長もそんな時代あったんですか?」
大堀が口を挟んだ。
「おれだってあるよ。本当に出来損ないでね。いい先輩に出会ったから、ここまで来られたって感じかな?」
「そんなすごい先輩がいたんですか?」
「もういないけどね」
ふと吉岡は表情が止まったのを田口は見逃さなかった。
——もしかして。保住さんのお父さん?
吉岡の瞳の色は憂いを帯びる。そこには、まるで大切な宝物を思い出すような、それでいて、悲しみに満ちたような複雑な色がある。
「いないって……」
事情を知らない大堀はさらに質問を重ねようとするが、なぜかそんなことはしない方がいいと思って田口は話に割って入った。
「吉岡部長は後輩を育てるのが上手ですね」
「そうか? そんな風に思ってくれるの?」
「ええ。部下のいいところを見て素直に褒めてくれる上司なんて、そうそういませんから」
「そうかな~。みんな色々違うじゃない。個性的で面白いよね。おれにないところを持っている人ばっかりだもの。好奇心旺盛なんだ。興味があるっていうか。ね。世代が違う人と話をするって、すごく刺激的だよ」
吉岡はまるで少年のような瞳をキラキラと輝かせた。保住の父親が彼をかわいがる理由がなんとなく理解できた。吉岡という男は、自分の弱さを知り、そして自分の強さも知る。そしてそれを素直に表現できる力もある。どこかぐっと人を惹きつける魅力を感じた。
「これからの梅沢は若い世代が支えていくんだ。田口くんも大堀もすっごく貴重な人材だし。これからも、いろいろと世話になることがあると思うんだよね。おれは君たちに助けられてここにあるんだ。どうか一緒にいい梅沢を作って欲しいんだ」
まだまだ一般職員の田口には「おれにそんな力はない」と思った。しかし、ふと吉岡の視線とぶつかった。彼の瞳はもの言いたげに田口を見据えている。田口はその視線に答えるかのように、まっすぐに吉岡を見た。
「ねえ、二人は職場恋愛したことある?」
田口は目を見張る。突然の話題の転換に、少々思考が追いついていない。しかし、大堀はすぐに笑い出した。
「吉岡さん、おれに彼女いないの知っているじゃないですか~」
「だから。例えばってことね。職場恋愛して、プライベートと仕事を切り離せるもの? やっぱり恋人だったら、同じ部署で一緒に仕事したいのかな?」
吉岡の瞳は田口だけを見ていた。それはまるで、自分に対して聞いているのだということ――。大堀はお茶らけて返答をしていたが、田口は違う。吉岡は本気だ。ふざけて終わらせるような内容ではないと理解した。
「吉岡さんはどうなのでしょうか」
田口はまっすぐに返した。
「おれ? そうだな。おれはね。弱虫だからね。一緒にいすぎて、こじれたらどうしようって思うタイプかな?」
「弱腰じゃないですか」
「恋人がいない大堀には言われたくないな~」
大堀は照れた。
「そうですね。すみません。おれもそういうタイプです。おれだったら当たらず触らずの距離感かも」
「田口くんは?」
田口は少し呼吸をしてから、吉岡から視線を外さずに、しっかりとした口調で返答した。
「おれは、そばにいたいですね」
「え?」
——そうだ。自分は……そばにいたい。ずっと。叶うことなら、そばにいて支えたい。
「できる限りそばで支えたいんです。それに学びたい。その人と切磋琢磨できたらいいと思います」
「田口ってお堅い……」
大堀は感嘆の言葉を漏らした。
「そうかな?」
「そうだよ。すごいね」
大堀にからかわれて、なんだか気恥ずかしい。真剣な眼差しを田口に注いでいた吉岡は、そこでふと表情を緩めた。そして「ふふ」と微笑を浮かべる。
「君は……やっぱりいいね」
「え?」
「うん。いい。おれ田口くん。好きだよな~」
「ええ! 吉岡さん、おれは?」
「もちろん! 二人とも大好き! 一緒に仕事していきたいね」
二人は頭を下げる。
「ささ。もう少し時間、いいでしょう? 飲もう、飲もう」
吉岡の真意は計り知れない。田口は腑に落ちない気持ちを押し込めて、日本酒をあおった。
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