第10話 ストーカー男?!



 その日の定時ギリギリの時間に内線が鳴った。受けた十文字はその内線を保留にすると、「田口さん、財務部の大堀さんって人からですけど」と言った。


 田口はどっきりとした。吉岡の話は冗談ではなかったようだ。馴染みのない部署からの電話に、場の雰囲気が変わるのがわかった。


 ふと保住と視線が合う。彼は怪訝そうな表情で田口を見ていた。「貴方のせいですよ」と言いたい気持ちを押し込めて、田口は少し恐縮したような表情をしてから、受話器を持ち上げた。


「はい。田口です」


 すると、この場の雰囲気とは対照的に明るい声が響いてきた。


「もしもし? 田口くん? 今日は色々とありがとうございました。明日の夜の場所なんですけどね。いいお店を期待していたのに……結局は、吉岡部長の一押し赤ちょうちんに収まりました』


 大堀は吉岡のところから電話をしてきているのだろうか。彼は愛想よく話をしてくるが、同じ調子で返答ができるはずもない。田口は「そうですか。承知しました」と返す。すると、小動物大堀はけらけらと朗らかな声で笑いをあげた。


「やだな! 田口くん。おれたち同期じゃない? そんなにかしこまらないでよ」


 ——いやいや。職場でそんな声をあげられるなんて。


 黙々と仕事をしているようで、ほかの職員の電話対応には聞き耳を立てているものだから、安易な言葉は口にできないものだ。大堀という男の人間性に疑念を持つ。


「もう! 田口くんが、なんで吉岡部長と仲良しなのか、明日は吐いてもらうんだから」


 別に隠しているわけでもないし、しかもそんなに親しいわけでもないのだが、大堀は勝手に話を進めるのが得意らしい。田口が言葉を発しなくても、話は進んでいく。


「ともかく。明日は時間厳守だよ。おれ一人で部長の相手しなくちゃいけないでしょう? そんなことになったら一生恨むからね~。6時半ね。6時半に赤ちょうちんね。では、よろしくお願いします!」


 電話は切れた。田口は自分の返答も待たずに切られた受話器を眺めて、ため息を吐いた。すると渡辺が「財務部の大堀って、聞いたことがないな」と顔を上げた。田口は首を傾げてから受話器を置く。


 まさか財務部長の吉岡に「飲みに誘われた」なんて口が裂けても言えない。焦ってとっさに口を開くと、へんてこなことを言っていた。


「さっき売店で少し会話しただけなんですけど。なんだかんだと言ってきます」


 ——そんなはずないだろう!

 

 自分自身に突っ込みを入れても後の祭りだ。渡辺は眉間に皺を寄せて「クレーマーか」と言った。


「職務中に飲料水買いにきてって、いちゃもんつけられたのか?」


「え、ええ。まあそんなところで……」


 ——すまない。許せ。大堀くん。


 田口は冷たい汗が背を伝うのを感じる。しかし、もう引き返せないのだ。どうせ渡辺たちは、大堀と顔を合わせることはないだろう。多少の嘘も許してもらうしかない。


「頭おかしいやつなのかな?」と谷川も真面目な顔で言った。十文字に至っては、本気で怒った顔をしている。



「係長のお使いで言っているのに。なんです。その人。田口さん、そんな輩は相手にしないほうがいいですよ!」


「しかしそんな初対面で絡むか? 普通。同じ市職員だぞ?」


「財務部の大堀って言いましたよね? おれ財務に同期がいるから、探りいれてみましょうか」


 谷川がおかしなことを言いだすので、田口は慌てて止めた。


「だ、大丈夫ですよ。そんなことまでしてもらっては……」


「いやいや。かわいい後輩が喧嘩売られたんだ。黙っているわけにいかないだろう?」


「そんな。お気持ちだけで十分です」


 一つ嘘を吐くと、その嘘を隠すためにさらなる嘘が必要になる。嘘はよくない。田口はそう思いながら、話を誤魔化して仕事に戻った。



***


 定時の鐘が鳴った。保住は手元にあった書類を抱え上げた。係長クラスになると、定時などあってないようなものだ。定時を過ぎてからの打ち合わせは連日のように続く。今日もこれから打ち合わせになるのだろう。


「打ち合わせに行ってきます」


「いつもすみません。今日は娘の用事で帰らせていただきます」


 渡辺は申し訳なさそうに頭を下げる。「気にしないでください。これはおれの仕事だ」と保住は笑みを見せてから事務所を出て行った。それを見送っていると、十文字がふと田口に言った。


「いいんですか? 怒ってません? きっと。の件ですよ」


 ——怒っている? 保住が?


「係長も知らない人じゃないんですか?」


「そうだけど」


「やきもちですよ。やきもち」


 やきもちを焼かれても困る。結果的には保住が蒔いた種なのだからだ。田口は「なのに」と呟いた。


「え? どういうことなんですか?」


 質問をされてしまうと、言葉を濁すわけにもいかない。十文字くらいになら言ってもいいだろう。田口は周囲を憚りながら小さい声で説明をした。


「係長が懇意にしている財務部長の吉岡さんに、飲み行こうって誘われた。断るわけにもいかないだろう? ちょうどその時に、一緒に居合わせた大堀くんも巻き込まれて、三人で行くことになってね。それで連絡が来ているんだよ」


「そうだったんですね。そんな話は、公然とできないですね。吉岡部長って、係長とお知り合いなんですね? すっごく懇意にされている感じで」


「係長のお父さん関連なんだと思う。係長のお父さんも市役所職員だったからね」


「父親の影が大きいと息子は大変なんです」


「十文字のお父さんは怪物だからな」


 保住ですら、父親の存在に押しつぶされそうになって仕事をしている。十文字はなおさらだろう。田口には理解できない状況だが、大変さはよくわかっているつもりだ。


「そういえば……吉岡部長と係長。先日、なにやら密談していたみたいですね。なにか始まるのでしょうか。おれ、追い出されたので内容はわかりませんけど」


 ——聞いていない。


 田口の胸は大きくざわついた。いつもだったら、なんでも話してくれる保住だが。自分に言わないということは、相当な話なのだろうか。それとも——信頼されていないのだろうか。


 田口はまるで自分に言い聞かせるように「込み入った話に入ることは得策ではないからな」と言った。


「その通りですね。係長の好意だと思っています」


 十文字は納得したように頷くと、仕事に戻る。しかし田口の心はなかなかそうはいかなかった。保住のいないデスクを眺めて、大きくため息を吐く。心が落ち着かなくなった。



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