第9話 財務の同期


 夏がやってきた。保住の熱中症事件が思い出される時期でもある。田口は飲み物を買おうと売店に足を運んだ。自動販売機よりもレジで購入した方が格安だ。かごを抱えて飲料水売り場に行くと、自分より少し小柄な男が、飲料水売り場のど真ん中で立ち往生していた。


「甘いのがいいか、甘くないのがいいか……。じゅわじゅわがいいのか、そうじゃないほうがいいのか……」


 彼は両腕を組んで、かなり悩んでいる様子であった。飲料水を買うためにここまで悩むとは。よほどの優柔不断らしい。


 休憩時間ならまだしも、今はまだ勤務中。保住の許可をもらってお使いに来ているとは言え、そう長居したくはない場所だ。


 市役所の売店は売り場面積がそう広いわけではない。飲料水売り場の中心に陣取られてしまうと、商品を見ることも、手にすることも難しい。遠慮がちな田口は少しの間、彼が決断を下すのを待っていたが、それでもなかなか決まらない様子にしびれを切らした。


 つい「あの」と声をかけるが、男は「うーん」と唸るばかりだ。田口は仕方なく、彼の肩に手をかけた。


「わ!」


 男は大きな声を上げると、田口を振り返った。


「びっくりした! なんなんですか!」


「あの。申し訳ない。驚かせるつもりはなかったのです。しかし、少々急いでいるもので……」


 相手の男は、ぱっとその場を退いた。それから、おろおろと視線をさまよわせてから田口に頭を下げた。


「すみません。やだな。優柔不断なもので。どうぞ。お先に」


「いいですか」


「ええ。どうせおれは、まだ決まらないんです」


 はにかんだ男は田口と同じくらいの年齢だろうか。栗色の髪は少しくせ毛気味。田口よりは随分と小柄だ。保住よりも小さいかもしれない。色白で頬がほのかに赤みを帯びてる。小動物を連想させるようなキャラクターだった。


 それにしてもかなりの優柔不断だ。職務に支障が出ていないのだろうか。いや、職務中にこうして飲料水を購入しにくるくらいだ。仕事はさぼり気味……というところだろうか。


 田口は男に一礼をしてから、お茶とイオン水をかごに入れ込んだ。それをじっと見ていた男は、声をかけてきた。


「そんなに買われるんですね! みなさんの分ですか」 


「うちの上司が自己管理できないもので……」


「やっぱり? そうですよね。部下って大変ですよね……。おれもちょっと頼まれて来たんですけど……。うちの上司は、なにがいいか言ってくれないんですよ。『お前に一任する』って。いやあ、困るんですよ。そういうの。これ欲しいって言われたほうが楽ですよね」


 随分とおしゃべりな男だと思った。いくら上司の指示とは言え、少しでも早く売店から立ち去りたいのだ。長居はしたくはなかった。


「へ~。そっか。そうですよね。うん。おれもそれにしよう!」


 男は手を叩くと嬉しそうに笑ってから、田口の真似をしてお茶とイオン水を持ち上げた。しかも一本や二本どころではなく——たくさんだ。田口の真似をしているらしい。


「あの。これは明日の分も入っています。一日にそんなに飲むのも良くないと思いますけど」


「え? そうなんですか?」


 抱えきれないほどのペットボトルを見て、笑ってしまった。


「やだな。そうならそうと最初から言ってくださいよ。ええ。知っていますよ。知っていますとも。一日に摂らなくちゃいけない水分って、4リットルくらいですよね」


「そんなに、いらないかと」 


「え? いや。そ、そうです、そうですよね」


 わかっていないことを隠しきれていないのか。笑ってしまうくらい情けない感じだ。田口は苦笑してから、彼の手からペットボトルを数本売り場に返す。手元に残ったのはお茶とイオン水の二本。


「それで充分です」


「ありがとうございます」


 嬉しそうに笑う男。人好きのする、みんなに可愛がられるタイプだろう。レジでお会計をした二人は、別段知り合いでもないので一緒にいる必要もないのだが、男がぺこぺこと頭を下げるので立ち去りにくい感じだった。


「ありがとうございました」


「いや。あの……」


 ——戻らないと。


 今日は保住のために買いに来ただけだ。


 ——こっそり、スマートに。


 この暑さだから市役所内には脱水予防のポスターが掲示され、この時期だけは水分を摂りながら仕事をしても怒られるようなこともない。そのため水分を購入しにくる職員は後を絶たないのだが。


「じゃあ」


 頭を下げて歩き出そうとすると、向こうから声がかかった。


「やっぱりここにいたね。まだお使いしていたの。書類どうなっているか知りたくて、探しちゃったじゃない」


 どこかで聞いた声。田口が顔を上げると逆に大堀は頭を下げた。


「すみません、部長」


「もう。こっそりやってって言っているのにぃ」


 向こうから歩いてきた男は田口を見て、笑顔になった。


「やあ、なんだ。田口くんじゃない。君も買い物? 君の体格だと、こっそりってわけにはいかないねぇ」


「お久しぶりです。吉岡部長」


「やだな~。田口くんに助けてもらったの?」


「えっと。そ、そうです。この方に」


 大堀は財務部の人間で、どうやら吉岡のお使いに駆り出されていたようだ。


「そんなかしこまらなくても大丈夫だよ。大堀と田口くんは同期入庁じゃないかな?」


 ——同期? この幼い感じの大堀と?


 田口は目を瞬かせた。だが彼は逆の感想かも知れない。同じように目を瞬かせて田口を見ていた。二人が違った意味で視線を交わしていると、吉岡は「そういえば」と手を叩く。


「この前、保住に『田口くんと一緒に飲み会したいなって』ってお願いしたら、『勝手に誘えば』って冷たくあしらわれちゃったんだよねえ。でも、それってお誘いしてもいいよってオッケーが出たわけで。だからね。飲みに行こうか!」


「お、おれですか?」


 部長クラスと話をするような立場ではない。田口は必至に首を横に振るが、吉岡は笑顔を見せるだけだ。


「またまた。謙遜しちゃって」


「そ、そういう意味では……」 


 遠慮しているのではない。心からのお断りなのだ。しかしそれが吉岡には伝わらないらしい。大堀は自分は関係ない、とばかりに笑っている。なんだか恥ずかしくなって顔が熱くなった。


「そうだ! 田口くんだけではなかなか話しにくいと思うし……大堀もおいで」


「え? おれですか?」


「そうそう。たまにはいいじゃない。君にはいろいろと世話になっているしね」


「でも……」


 一般職員が部長クラスと接点を持つことはゼロに近い。職員の中には、コロコロ変わる部長の名前すら、覚えていない者がいるくらいだと言うのに。田口の疑問を感じ取ったのか、吉岡はこっそりと耳打ちをしてきた。


「おれ、書類作るの苦手だからさ。この子にやってもらっているんだ」


「そ、そうなんですね」


 部長には秘書はつかないはずだが。吉岡の個人的権限で大堀は彼のサポートをさせられているようだった。


「そんな恥ずかしいことを、余所の人に言っちゃダメですからね。部長が書類作るのだなんて!」


「そうなの?」


「そうですよ!」


 大堀に窘められて、吉岡は肩を竦めた。


「大丈夫です。保住さんには言うかもしれませんが、他言はしませんよ」


「ほら! 誰かに言うって言ってますよ」


「保住なら大丈夫だよ」


 二人のやり取りは続いていきそうな予感。田口は苦笑いをしてから頭を下げる。


「申し訳ありません。業務に戻らなくてはいけないもので」


「あ、ごめん。田口くん」


「悪いね。田口くん。飲み会は……明日にしようか! 大堀もね。よろしくー」


「おれ、行くって言ってないです!」と大堀は頬を膨らませた。すると、吉岡は小首をかしげて「いいでしょう? ダメ?」とかわいらしい口調で返す。


「ダメ? ってかわいく言われても困ります」


 大堀は吉岡の手をぺちっと叩いた。


「どうせ、夜の予定ないじゃないか」


「人のプライベートまで管理するのはやめてください」


 物腰柔らかそうな大堀だが、吉岡には手厳しい。いや、こういったことまで言い合える関係性なのだろう。澤井をあしらっている保住が思い出された。しかしこの二人に付き合っていると切りがない。田口は「わかりました。じゃあ明日ですね」と言って頭を下げた。


「物わかりがいい子はいいね。場所は……後で大堀に連絡させるね」


「承知しました。それでは、失礼いたします」


 田口はもう一度、頭を下げてから事務所への道を急ぐ。面倒な輩にからまれたものだ。親切心なんて出さなければよかった。そんな後悔をしながら、だ。

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