第3話 お久しぶりです。


「入りますよ」


 ノックに対する返答がなくとも関係ない。保住は副市長室のドアを開けた。副市長には職員が一名専属でつくことになっている。しかし、どうやらその職員は不在のようだ。中には澤井が一人で書類を精査しているところだった。


 澤井の横に据え付けられている秘書課職員が座るデスクには、書類が山のように積みあがっていた。教育委員会事務局長時代よりも、業務量は増えているはずだ。


 直属の部下もいない。副市長とは孤独な地位なのだろうな——と保住は思った。


「そこに座れ」


 そんなことを考えていると、澤井は応接セットに視線をやった。保住は指示通りに腰を下ろす。澤井は老眼鏡を外すと、書類を手に保住の向かいに座った。


 ——いったい、なんの話だというのだ?


 澤井は保住の様子をまじまじと見つめると、不意に笑い出した。


「なんだ! 小綺麗になったな」


「そうですか?」


「田口がせっせと世話を焼いている姿が目に浮かぶようだ」


 ——嫌味か? なにを言いたいのだ。


 保住は黙って見せる。不本意な意思表示だ。しかし澤井は相手にする気もない様子でそれを無視した。それから書類を保住に差し出した。


「なんです?」


 ——『市制100周年のアニバーサリー企画』だと?


 100歳の誕生日。100年に一度の祭りが三年後に控えている。それに関する資料だった。大がかりなイベントになることは容易に想像がついた。そのためには、今からの準備が必要であろう。保住は澤井を見返した。


「——人も金も大きく動く。来年度から準備をしていこうと思っているのだ」


「この話をおれにするって。文化課でやれってことではないでしょうね?」


「本気で言っているのか?」


「いいえ。冗談ですよ。文化課にオファーを出すなら、佐久間局長と野原課長です。おれを呼びつけるくらいだ。他の案があるのでしょう? ああ、嫌だな。なんだか嫌な予感がします」


 澤井は両腕を組んでソファにからだを預けた。


「くだらないことで時間を割くな。お前なら凡その検討はついているのだろう?」


「室を設置するつもりですね」


「そうだ。市制100周年記念事業推進室を立ち上げる。室はどこにも属させない。おれ直轄部署だ」


「そうですか。そこに異動になったら、この世の終わりと言うわけですね?」


 澤井は笑った。


「その、『この世の終わりの部署』の長にお前を指名する予定だ」


 ——くそ野郎。


 保住は首を横に振る。


「ご冗談を! 副市長直轄の室では、部長、次長クラスと同等の扱いじゃないですか。係長のおれが担えるとは思えません」


「なんだ。組織などくそくらえと言うお前が、組織体制にこだわるというのか? おかしな話だ。そう心配するな。等級は課長クラスにあげてやる」


「そう言う問題ですか」


「そう言う問題だ」


 ——破天荒なことばかりする。


「組織のルールを遵守しろとおれに教え込んだのは、貴方ですよ? 組織が崩壊します」


「おれが副市長の間はそんなことにはならん。安心しろ。市制100周年まではこの座にいる予定だ。お前がへまをしなければな」


「なんです? おれが貴方の進退を左右するとでも? おおそうですか。わかりました。なら、大きな問題でも起こして差し上げましょう。この庁内から貴方の姿が消える日がくるのは、そう遠くない未来かもしれない、ということですね」


 澤井は「くだらん。出来ぬことを口にするな」と言いながら「資料をめくれ」とジェスチャーで示した。資料をめくるとそこには推進室のことが記載されていた。推進室は室長を含め四名で構成予定と記載されている。


「田口を連れて行け」


「田口を——ですか」


「お前の恋人だからではない。あれはお前ほどではないが仕事ができる。後の二人はお前が好きな奴を選べ。無茶な仕事をさせるのは重々承知だ。だからそのくらいは、お前に決定権を持たせる」


「選べと言われても、選べるほど職員のことを知りませんよ」


「そうなると思ったから」


 澤井はもう一枚の紙を渡す。


「現段階で適切と思われる職員一覧だ。そう多くはない。この中から選んでもいい。もう少し素行や仕事ぶりを見たいなら、調査を入れてやる」


「なんだか穏やかな話ではありませんね」


「それだけ、この事業。失敗は許されないということだ」


 澤井は続ける。


「たった四名で三年あまりのアニバーサリー事業を回すのだ。一人でも使えない奴がいれば他の職員が潰れる。チームワークが取れない奴がいたら、うまくいかない。わかるだろう? お前のやり方を理解し、一人一人の能力が高い奴を選定しなければならない。だから、早めに話をしておいた」


 澤井の考えはよくわかる。保住は頷いた。


「話はわかりました。しかしそんな重要なポストをおれに当てがって、あなた自身は平気なんですか」


「平気?」


「そうです。あなたの取り巻きたちが黙っているとは思えませんけど」


 取り巻き。澤井派の人々。つまり、反保住の考えのある人たちだ。


「そんなことを心配するのか? お前が。それを言うなら、お前も説教されるだろうな。吉岡や水野谷に——」


「おれは父ではありませんから。怒られるくらいでしょう。それに別に吉岡さんたちに支持してもらうような人間ではありませんから。おれは、おれなりの人間関係を作りたいだけです」


「そんな自由が許されないのはよく理解しているだろうに」


 澤井は笑った。


「今日の話は他言無用だ。まだ田口にも言うなよ」


「承知しました」


 保住は頭を下げて立ち上がる。


「部下の目星が着いたら直ぐに知らせろ」


「着けばいいですけど」


 澤井の部屋を後にして、保住は廊下で立ち止まった。面倒なはずだが、市制100周年の仕事は魅力的。


 ——やりたい。


 既にアイデアは浮かんできてしまうのだ。現場にいれば日々の仕事は楽しい。だが管理職なりの楽しみ方があるということを理解してきたところだ。自分でもわかっている。まだまだ経験もない。大がかりな事業の責任者を担うほどの立場でもないこともわきまえている。だが——。


 ——こんな大仕事を成功に導ける職員は、この庁内にそう多くはない。澤井の人選は適切だ。


 保住は浮足立つ気持ちを押さえつけ、なるべく平常心を保つように努めた。



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