第8話 前市長の息子
石田の店特製ナポリタンはとても美味しかった。客層み見ると、合唱好きばかりではないだろう。純粋に喫茶店を楽しんでいる人も多く見られた。
楽しい時間はあっという間に過ぎ去る。十文字から高校時代の話を聞いていると、ふと見知った男が姿を現した。
「いらっしゃいませ。ああ、菜花さん」
田口ははっとして視線を入り口にやった。そこには、県庁職員の菜花がいた。彼は「どうもね」と石田に手を上げた。それから、ふと田口に視線を寄越した。
「あれ? あれれ?」
菜花は田口のところにやってくる。
「ええっとー。保住くんのところの」
「田口です」
「ああ! そうだ。忠犬くんだあ」
彼はへらっと笑みを見せた。
「キミがここにいるなんて。保住くんは?」
「今頃、仕事しています。そういう菜花さんは? 常連なんですね」
「おやぁ? 似つかわしくないとでも言いたげだね。まあ、その通りなんだけど。ちょっと待ち合わせね」
すると石田が珍しく嫌そうな顔をした。
「待ち合わせに使わないでもらいたいですね。菜花さんはいいですけど。あいつがくるのはごめんだ!」
「ごめん、ごめん。でも仲良しじゃない?」
菜花な田口に手を振ると、石田と共にカウンターの方に向かった。田口はトイレに立った。そろそろ帰らなければ。そんなことを思い、席に戻ってみると、十文字はテーブルで突っ伏して寝ていた。
「疲れていたからな」
——おれに気をつかう場合ではないのに。全くのお人好しだな。だから、恋愛も上手くいかないのかもしれないな。
どうしたものかと思案していると、石田が皿を下げに来た。
「先輩の前で寝てしまうなんて。しつれなやつですね」
「いや。ここのところずっと眠れてない状況だったから、仕方ない」
石田は困った顔をした。
「田口さん、——こいつちゃんと仕事していますか? 高校時代はちょっとした有名人だったんですよ。こいつ、当時の市長の息子だったんです」
「え? ああ。あー、確かに、前市長は十文字と言ったな。おれが入った年に市長改選で変わったから。顔を覚えてはいないが」
「昔から甘やかされて育ったおかげで、頑張る事は嫌い、ダメなら最初から取り組まない的な性格なんですよね」
石田の言葉は十文字から聞いている本人の認識と大体一緒だ。だけど——。
「彼も自分自身のことをそんな風に評価していたが……果たしてそうなのかと思う」
「そうですか?」
「確かに。彼のプライドは自分を守る方に働いているようだった。だが今の部署ではそれは許されない。自分を守ることに使うプライドなんて、粉々にされる。むしろそう言ったプライドは、仕事への取り組みに方向転換しなければならないのだ」
「キツイ職場だなぁ」
——確かに。キツイ。出来ない奴は生き残れない。
最初は緩い雰囲気だと思ったが、市役所のどこよりも厳しいかも知れない。だがそんな中で培われるものは、市役所職員としてのプライドだ。
「十文字はそれでもくらいつく。弱音を吐きながらも止めないんだ」
「意外ですね」
石田は目を細めて十文字を見下ろす。
「こ今日久しぶりに見たら、いい顔してるなって思ったのは、そう言うことですか」
「ああ。本当に頑張っている」
「ありがとうございます」
「え?」
「いや。こいつの殻を破ってもらって。いつもそのプライドでなにも始まらないし、成長出来ない奴でした。なんとかしてやりたくても、おれたちでは見ていることしかできなかったし」
「やったのは係長で、おれじゃないけどね。少しも手伝ってやれなかった」
「いやいや。きっと、こうしてお礼しようとここにきたのだから、きっと田口さんには感謝しても仕切れないのだと思いますよ。そういうのも淡白な奴です。——しかし怖い係長さんなんですね」
「怖いって言うのか。真剣で真面目なだけって言うか。ああ、見た目は真面目そうには見えないが」
「なんです? それ。面白そうな人だ。今度、連れてきてくださいよ」
「あの人におしゃれな店は、似合わなからどうかな?」
保住がここに座っているなんて、想像がつかない。なんだか愉快な気持ちになった。
「それにしても、よく寝ているな。どうしたものか」
田口は苦笑して十文字を見つめる。石田も困った顔を向けた。
「おれも店、まだ閉められないしな。十文字、起きろ」
石田が肩を掴んで振るが、起きる気配はない。
——爆睡か。
「仕方ない。おれが預かりましょう」
「そんなところまでしてくれるんですか? ここに寝かせておいてもらえば、店閉めた時に面倒みます」
「いや。今日はおれのために無理してここに来たんだし、おれが責任を持ちます」
田口はお代を払ってから十文字をおんぶした。保住の時とは訳が違うが。かわいい後輩だ。置いておくわけにもいかないと思った。
「田口さん、逞しいですね」
石田は呆れたように笑っていた。
「体育会系も捨てたもんではないです。ご馳走さまでした」
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