第7話 仲間入り



 時計の針は午後5時を回ったところだった。田口は十文字に付き添って、保住の前に立っていた。企画書がなんとかまとまったのだ。


 保住の最初の一言が怖い。隣にいる十文字は限界突破している。なんとかこれでオッケーをもらいたい。心の中で田口は祈っていた。保住に妥協してほしいとは言わないが、十文字の頑張りを認めてもらいたいと思った。


 保住が書類を机に置いた。判決を待つ罪人のようだ。じっと保住を見下ろした。彼は、田口を見た。それから十文字に頷いて見せた。


「まあギリギリだけど、よしとしよう」


「ほ、本当ですか?」


 十文字は目を瞬かせた。


「頑張ったな。十文字。最初の物から比べると遥かにいい」


 保住はにっこりと笑みを見せる。十文字は田口を見た。田口もその視線に頷いて返す。谷川が「因みに何点ですか?」と悪戯に問うた。


 保住は「そうですね」と考え込んでから悪びれもなく言い放つ。


「55点ですかね」


「田口より低っ!」


「いや、どちらもどちらだな」


 渡辺は腕組みをして、ニヤニヤしていた。


「佐久間局長は出張だ。明日、朝一に企画書のプレゼンして、オッケーもらったら話を進めよう」


「は、はい!!」


 十文字は嬉しそに頷くと、田口の手を握った。


「田口さん、本当に本当にありがとうございます!」


「おれはなにも。十文字が頑張ったんじゃない。今日は、ゆっくり休んだほうがいいね。明日はプレゼンだ」


「十文字の歓迎会は今週末にしましょうか」


 渡辺の提案に保住は頷く。


「大分遅れたが、企画書が出来たら仲間入りの儀式が通例だ。歓迎会だな」


「ありがとうございます!」


 憔悴しきってはいても、十文字は満面の笑みを見せる。これで彼も仲間入り。


 ——そう。これで。十文字。よろしくな。


 田口は心の中で何度も呟いていた。





 定時になりみんなが残る中、新人の十文字は先に席を立つわけにはいかないだろう。彼を早く返すため、田口は帰り支度をした。


「すみません。今日はお先に失礼いたします」


 田口が気を利かせているのが、みんなには理解できたのだろう。渡辺は「それがいい」とばかに頷く。


「田口、お疲れ」


 田口は十文字を見た。


「十文字も帰ろう」


「でも」


 彼はみんなを見渡す。先輩たちより先に帰るのは……そんな顔だった。田口は彼の腕を引っ張った。


「帰ろう、帰ろう!」


 田口は遠慮がちな彼の背中を押して、事務所から出る。こうでもしないと帰れない。


「ちょ、ちょっと! 田口さん!?」


 戸惑っている十文字の言葉は無視して、庁舎を出ると、掴んでいた手を離した。


「田口さん、真っ直ぐ帰るんですか? 夕飯食べて行きませんか? なにかお礼したくて……」


「そんなものはいい。早く帰って寝ろ」


「そういうわけにはいきません。おれの友達がやっている店に付き合ってくださいよ」


「いや、いいって」


「係長には、ちゃんと謝りますから」


 ——そう言う意味ではないのだが。


 田口は弱ってしまった。


 ——早く帰して休ませようと思っていたのに、逆に気を使わせたか。しかし、十文字の気が済むなら良いのだろうか?


「じゃあ、ちょっと待って」


 彼はメールを打った。先に出たのに帰宅していないと心配をかけるものだ。十文字と寄り道をして帰ると伝えて、田口は「よし」と言う。


「よしっ! いいぞ。お前の気が済むまで付き合おうじゃないか!」


「いや、そこまでは……」


 田口の気迫に十文字は逃げ腰だった。自分で誘っておいて、なんだ? と田口は目を瞬かせた。





 彼に連れられてやって来たのは、駅の近くにある古ぼけた喫茶店だった。見かけても絶対に入らない部類の店だ。お洒落な店に興味がないわけではないが、自分のカラーに合わないと理解しているからだ。


 友達の店と言っていたが——と、いうことは経営者は田口よりも若いのかもしれない。起業して生計を立てようなど考えたこともない。十文字には悪いとは思いつつ、どんな人間なのか興味が湧いた。


 くすんだ灰色の壁は亀裂が入っていて、建てられてから随分と過ぎていることが伺える。木枠の小さい窓からは、煉瓦色れんがいろの温かい照明が見て取れた。


 十文字が木製の扉を押すと、からんからんとくぐもった鐘の音が鳴った。その音は想像していた以上に低い音で、耳に障ることはない。


 外から見ると、閑散としているように静まり返っていたのに、中はなかなか客が入っていた。


「いらっしゃい」


 カウンターにいた男が顔を上げる。少し長めの前髪を後ろに撫で付け、その下には精悍な眼差しが光っていた。


 鋭いその視線には似つかわしくない黒いエプロン姿はアンバランスな気もするし、逆にそのアンバランスさが彼の魅力でもあるような気がした。


 田口がそんなことを考えていると、十文字が手を上げて挨拶をした。


「石田。お邪魔するよ。今日は職場の先輩にお礼がしたくて」


 彼の言葉に石田と呼ばれたマスターは、田口を見て頭を下げる。


「いつも十文字がお世話になっております」


「いえ。こちらこそ。田口です。よろしくお願いします」


 礼儀正しい二人の挨拶は、この喫茶店には似つかわしくない気がした。


「お腹空いたし。なんかお願いします」


 十文字はそばの二人がけのテーブルの椅子を引いたので、田口もそれに習った。落ち着いてみると、店内で流れているのは……。


「合唱曲?」


「あ、気がつきましたか? さすが田口さん。石田とは高校の部活で知り合って。部長だったんです。今はメインは喫茶店のマスターですけど、声楽家としても活動していて」


 田口は思わず石田を見つめた。長身でスリムな彼からはどんな歌声が聴けるのだろうか?


「まあ、田舎ですからね。喫茶店のほうが忙しいみたいですけど、高校とか社会人合唱団のボイトレ、講師依頼があって、あちこち駆け回ってます」


「ボイトレ?」


 十文字にとったら当たり前の専門用語も、田口には馴染みがないのだ。


「すみません。ボイストレーニングのことです」


 それでもよくわからない。黙っていると、十文字は続けて説明をしてくれた。


「えっと。合唱って声が命なわけで……ですが、声の出し方を知っている人が指揮者になるとは限らないんです。そんな時は、声のトレーニングを専門家である声楽家に依頼することがあります」 


「なるほど。コーチみたいなものか」


「まあ、そうですね」


「勉強になる。音楽は全く知らないのだ」


 軽く頭を下げる田口を見て、十文字は笑った。


「もう。本当に参るなぁ。田口さんには」


「え?」


「こんな年下のおれにまで律儀で真剣に向き合ってくれて。嫌になっちゃう」


「すまない。嫌な思いをさせているのか?」


「だから!」


 何を言っても十文字は笑う。田口は少々、弱ってから頭をかいた。すると、そこに石田がナポリタンを持って現れた。


「すみませんね。こいつ。迷惑かけ通しじゃないですか?」


「そんなことは……。優秀な人材ですよ」


 田口はそう言い切ったが、十文字は恥ずかしそうに俯いた。


「田口さんにはお世話になりっぱなし。情けないくらいだ」


 石田は口元をあげて優しい笑みを見せた。


「こいつ。昔からそうなんです。何事も斜めに見るっていうか。冷めているように見えますけど、心根は熱くて真面目です。……どうか面倒見てやってください。おれからもお願いします」


 石田は礼儀正しく頭を下げた。元部長。みんなの面倒をよく見てきたのだろう。二人の雰囲気を見ていると、親しい感じが見受けられた。


 田口は「こちらこそ」と頭を下げる。十文字という男は友達に恵まれているらしかった。





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