第5話 ヘロヘロ



 保住が書類を精査している時間。いくら田口でも、その緊張感には未だ慣れることはない。十文字は、憔悴しきっていた。目の下にはくまができているし、顔色も病的に青白い。


 彼は、赤ボールペンをくるくると回しながら書類を眺めている保住を見下ろしながら、気でも遠くなってしまうのではないか。後ろに倒れてしまうのではないかと心配になった。


 と。十文字が息を吐いた時。保住が「いいぞ」と口を開いた。十文字は「へ?」と素っ頓狂な声を上げた。仕事をしながら、二人の様子をうかがっていた田口も内心ほっとした。


「コンセプトは合格としよう」


 保住の言葉を確認した十文字は、腰砕けになって床に座り込んだ。保住は目を丸くした。


「なんだ。大丈夫か?」


 田口はすかさず十文字のところに駆け寄って、彼を助け起こした。


「す、すみません。田口さん。大丈夫です」


 颯爽とおしゃれな出で立ちで登場した彼だったが、見る影もない。十文字は必死だった。目がぎらぎらとして、限界に到達している様子だ。


 保住という男は、こうして人を追い詰め、そして限界を見せる。これ以上は無理だ、と思った先に開かれた道。それは、人がステップアップしていくためには必要なことなのかもしれない。けれど、それに耐えられない人間もいるのは事実。十文字の様子を見ていると、限界ギリギリだ。精神を病むのではないかと心配になったのだ。


 澤井流だ。保住の仕事の仕方は澤井なのだ。恋人になったとしても、そこは怖いところだ、と田口は思っていた。ただ、澤井を違っているのは、相手を見定めているというところだろう。保住は十文字を信じている。保住は、十文字ならやり遂げる。田口のようにやり遂げると信じているから、敢えて厳しい姿勢を崩さないのだろう。


 ふと保住と視線が合った。彼の言いたいことはわかっている。フォローしろ、ということだ。田口が小さく頷くと、保住も頷き返す。それから声色を和らげてから十文字に言った。


「ただし。こんな企画書は有り得ない。書き方は田口に教えてもらえ。新しいのが出来たら出せ。もう待てない。期日は明日の朝一」


 十文字は不安気に田口に視線を寄越す。ここまで一人でよく頑張った。田口は「任せて」という気持ちを込めて頷いた。


「田口さん……」


「田口、残業しても徹夜してもやらせろ。もう限界だ」


 保住の言葉に田口はさらに頷く。


「承知しました」


 田口は十文字を連れて、ミーティング室に入った。


 十文字が考えた企画は、市内の合唱部を持っている高校の持ち回りコンサートだった。合唱が盛んな梅沢市内には、合唱部を持つ高等学校がたくさんある。どの学校もレベルが高く、全国大会の常連組が多い。それを活かしたいというものだった。


 これは合唱をしていた十文字ではないと思いつかない企画だろう。田口は感心していた。同じ曲でも、演奏家が違えば印象は随分変わるものだ。混声、女声、男声、少人数、大人数。マニアが喜びそうな企画だった。


 しかも未成年者が出演すると、必然的にギャラリーには家族がやってくる。集客も見込めるのだ。


「面白い企画を思いついたものだな」


 田口が素直にほめると、十文字は、はにかんだ笑みを見せた。


「もうなーんにも思いつかなくて。ダメだって思った時に、高校時代の同級生からメールが来たんです。なんだか心も弱っていたんでしょうね。弱音吐いてしまって。そうしたら、色々と相談に乗ってくれたんですよ」


「いい友人だね」


「高校の音楽教師をしています。市内にはいないんですけど。色々とアイデアをもらっているうちに、自分たちの高校時代を思い出して。それで、こんな企画が出ました」


 田口は「うんうん」と頷いた。


「じゃあ、先に進めようか。書き方。一緒に直していくぞ」


「はい」


 田口は持参してきたノートパソコンを開くと、十文字のデータを表示した。市役所内はサーバーが存在し、職員たちはそこにデータを預けておく。そのため、パソコンが変わっても、いつでもどこでも引き出せる。便利な仕組みだった。


 ——おれの時より随分と遅れているのだろうな。保住さんが珍しく焦っている。なんとか仕上げていかないと。


 田口は十文字と一緒にパソコンの画面を見つめた。


「まずは目的について考えてみよう。目的は二つの視点で設定する必要がある。二つの視点。わかるか?」


「えっと。おれたち主催側のものと、対象者である市民のものってことですよね?」


「そうだ。それを考えると、この目的は見合っているかどうか、という話になるわけだ」


「見合っていません。じゃあ……こんな感じではどうでしょうか?」


 パソコン上で十文字が打ち直したものを覗き込む。彼は賢い。飲み込みも早い。田口は「いい。随分よくなった」と頷く。十文字は恥ずかしそうに「ありがとうございます」と俯いた。


 最初、彼がやってきた時。田口は戸惑った。仲間として認められずにいた。しかし。こうして必死に仕事に食らいつく彼を、もうすっかり仲間として認めている自分に気がついた。


 ——そんなに難しいことじゃないんだ。おれの気持ち一つ。


「では、次を見てみようか」


 ふと十文字の横顔を見ると、目元が痙攣けいれんしていた。


 ——疲れているのだろう。


 田口は立ち上がった。


「と思ったが。その前に、コーヒー持ってくる」


「あ、おれが」


「いやいい。休んでいろ。寝ていないのだろう?」


「一時間くらいは……寝ました」


「休んだほうがいい。先はまだ長い」


 時計の針は昼前だ。なんとか定時までに仕上げたい。そう思った。保住は徹夜してもやらせろ、と言っていたが、そうもいかない。十文字は限界にきているからだ。


 田口は売店に行って紙コップのコーヒーを買う。仕事中だが、これくらいは許されるだろう。緊急事態だ。田口がコーヒーを手に戻ると、十文字は机に突っ伏していた。


 ——少し寝かせてやろうか。


 そう思ったが、田口の気配に気がついたのか、彼はすぐにからだを起こす。


「はっ! すみません。寝てました?!」


「大丈夫だ。もう昼だし。早めに休憩してもいい」


 しかし十文字は、パンパンと自分の手で頬を叩いて気合いを入れた。


「やります! もう少し!」


「根性あるな。合唱部」


「剣道部には負けませんっ!」


 田口は苦笑してコーヒーを渡す。


「ただし、少し休もう」


「わかりました」


 段々と夏の気配。熱いコーヒーよりアイスコーヒーが飲みたくなる時期になってきたものの、疲れているときはこれに限る。


「合唱部も厳しそうだな。この前、関口先生にお会いした時、マネージャーの有田さんに、音楽は体育会系と一緒だと言われた」


「関口——先生?」


「世界的に有名な指揮者、関口圭一郎先生だ」


「すごい! すごい先生ですね」


「事業見ただろう? 昨年度の末に行われたオペラだ。そう頻繁に開催はできないが、年に一度は開催したいと澤井副市長は意気込んでいるようだ。ただし予算がかかる。今年実現するかは微妙だけどね」


「確かに。でもいいなー。おれも出たかったな」


 ——そっちか。


 田口は音楽を奏でるという感覚がないから見る側の意見だが、十文字はずっと音楽をやってきた男だ。そういう感覚なのだろう。


「楽譜見る?」


「み、見たいです! あ——でも。これ終わってから」


「それはそうだが。今日中に終わらせる。大丈夫だ」


 田口が笑ってみせると、十文字も笑顔を見せた。なんだか彼の久しぶりに見た気がした。


 ——随分と辛い思いをしているのだろうな。


 自分の時のことを切々と思い出す。


「田口さん」


「ん?」


「どうやったら失恋連敗を止められるものでしょうか」


 突然の言葉に、田口は面食らった。




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