第2話 鬼がもう一人


 同棲し始めてから田口は、部署内では平静を保とうと努力していた。勘がいい人間ばかりの部署だ。感づかれてはいけない。


 しかしひとたび仕事が始まってしまうと、そんなことは関係なくなってしまう。提出する予定の企画書を精査していると、ふと「恋人ができた?」という渡辺の声が耳に入ってきた。田口は驚いた。それから、慌てて取り繕うと声を上げた。


 隣で保住も、うろたえたように顔を上げた。互いに顔を見合わせる。保住も同じ気持ちなのだろうと思った。思わず下を向いた。しかし渡辺は自分や保住を見てはいなかった。彼の視線は―—。谷川を見ているのだった。


 しかし渡辺は、挙動不審な保住の様子に気がついてようだ。不意に笑い出す。


「係長、なに狼狽うろたえているんですか? 谷川の話ですよ」


「そうですか。谷川さんの話ですよね。——やりましたね! 谷川さん」


 保住は妙に明るい声で言った。ごまかしているつもりらしい。田口は内心、苦笑していた。保住の気持ちが手に取るように理解できたからだ。


「ありがとうございます。でも、そんな大きな声で言わないでくださいよ。恥ずかしいじゃないですか」


 他の島に座っている職員たちからの不審な視線に、谷川は居心地が悪そうに視線を伏せた。田口は「いいお話ですね」と便乗した。


 田口も便乗する。ここは谷川の話に集中するのが得策。そう思ったからだ。しかし―—突然。十文字が両手でダンっとテーブルを叩いた。


「すみません! 考えが纏まりません! 少し外の空気吸ってきてもいいでしょうか」


 彼の迫力に気圧された渡辺は「ああ、どうぞ」と両手を差し出した。彼はどんよりとしたオーラを纏いながら事務室を後にした。それを、見送った後、渡辺が両肩をすくめた。


「企画書の件で行き詰っているんだよ。田口。ちゃんと見てやれよ」


「わかっています」


 あれから。十文字には企画書のレクチャーをした。彼は意気揚々と初稿を作ったのだが。「二番煎じだな」と保住に切り捨てられて撃沈した。プライドの高い男だ。ばっさりと切り捨てられたことで、どうやら立ち直れなくなってしまったようだ。


「係長のダメ出しは、メンタルやられます」


 谷川は軽く言うが、田口は身をもって知る一人だ。妥協を許さない保住の仕事への姿勢は、時に周囲の人間に重圧をかけてくるものだ。だがしかし。当人はそんなことは微塵も思っていないのだ。案の定、「そうだろうか」と首を傾げた。


「いいえ。やられるんですよ」


 三人は顔を見合わせて首を横に振る。


「キツイですよ」


「鬼の局長がいなくなったのに」


「ここに鬼がまた一人」


「おれは澤井じゃありませんから。一緒にしないでください」


 その瞬間。事務所の扉が豪快に開いた。


「なんだ? おれの話かをしていただろう?」


 振興係だけではない。地の底に響く重低音。他の島の職員たちも一瞬で凍りついた。


「数ヶ月いないだけで、たるんだ雰囲気だな。ここは」


 ——鬼の鬼。閻魔えんま大王。


 そんな言葉が田口の脳裏をよぎった。


「こんなところになんのご用ですか。副市長」


 さすがの保住も苦笑いだ。


「佐久間に用事だ。お前らになど用はない」


「そうですか。失礼致しました」


 そこにそんな雰囲気を感じていないのか、澤井を押し退けて十文字が戻ってきた。


「戻りました」


「おいおい」


「十文字……」


「あ、失礼します……」と、言いかけた瞬間。十文字は澤井に首根っこを掴まれて引き上げられた。


「あわわわ」


「副市長! すみません。こいつ新人で」


「新人もなにも関係なかろう。——貴様、いい度胸だな。名前は?」


「じ、十文字です」


「ふむ、覚えておこう」


 保住は十文字を受け取る。


「お前の教育がなっとらん」


「すみませんね」


 保住をじっと見据えた後、澤井は「ふん」と鼻を鳴らして廊下に姿を消した。先ほどまでの和気あいあいとした雰囲気は、澤井の登場で崩れ去る。文化課の室内は、まるで通夜の席のように静かになっていた。しかし十文字は、もっと暗い。


「おれ——全く気がつかなくて。すみませんでした。まさか、副市長がこんなところに来るなんて。思ってもみませんでした」


 ついていないときは、なにからなにまでついていないものだ。すっかり怯えてしまった十文字を見ていると、田口はなんだか可哀想になってしまった。



















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