第19章 頑張れ!新人くん!

第1話 今ある幸せ



「保住さん、そんな頭ではいけません」


「うるさいな。田口は」


 出勤しようと、扉のノブに手をかけると、田口が櫛を握りしめて追いかけてきた。


「別にいいじゃないか。誰に見せるわけでもないし……」


「社会人としての最低限のマナーです! 顔、洗いましたか?」


「洗ったって」


 ——うるさい。


 田口は小姑みたいだ、と保住は思った。「一緒に住みます」宣言から、数日後。田口は本当に引っ越してきた。その行動力の凄さに呆気に取られたことはいうまでもない。仕事もそのくらい熱心だといいのに——。いや。彼は十分熱心に仕事に取り組んでいる。


 保住の住まいは2LDKの古いアパートだ。鉄筋の作りなので、他の部屋の騒音も少なく、比較的断熱効果も高いので気に入っている。元々、そんなに広いアパートはいらなかったのだが、不動産屋に押されて押切られた過去がある。


「市役所さんなら、すぐお相手も見つかります。子育てにも良い物件ですよ」


 仲介した不動産の男性職員の顔が忘れられない。


 ——すぐに相手はできないし。しかもやってきたのは、この大型犬だ。子育てもへったくれもないな。


 田口が自分の寝ぐせを直す間、保住はそんなことに思いをはせていた。


 間取りは玄関を入ってすぐ左手がトイレ。その奥が寝室だ。玄関から右手に折れると、バスルームがあり、その奥がもう一部屋とリビング、キッチンだ。南向きのいい部屋だった。


 そもそも一人で住むには広すぎる部屋だったから、田口一人くらい増えても、特に問題はなかった。田口は自分のマンションを家具を置いたまま賃貸としたそうだ。身の回りのものだけを持ってきた田口。当初は落ち着かない気持ちを持て余していたが、それも過去の話になりつつある。


 田口との時間は、保住にとったらストレスではないようだ。あっという間に、彼がそこにいることに慣れてしまったようだ。田口は「よし」と保住の肩を叩いた。


「できました。行きましょうか」


「そうだな」


 先ほどまで、仕事のことで頭がいっぱいだったのに。田口に寝ぐせを直してもらうこの時間は、保住に心の安定をもたらしてくれるようだ。妙に落ち着いてしまった心に気が付いて、保住は田口を見上げた。


「なんです?」


「いや。いつも朝はばたばたとしていて、なんだかよくわからずに出勤する毎日だった。しかし。こうしていると、心が落ち着くものだな」


 田口はきょとんとした顔をしていたが、すぐに笑みを見せる。


「そうです。朝、余裕を持つことで、その日一日が落ち着いて過ごせると思います。それに、やっぱり身だしなみを整えるって、気持ちの整理もつくというか。いいことだと思うんですよ。保住さん」


 田口が来てからというもの、朝は早々に起こされることが増えた。田口は保住よりもずっと早起きだ。へたくそな割に、早起きをしてキッチンに立つ。彼が動き出す音で目が覚める保住は、いつまでも一人で寝ているわけにもいかず、おのずと早起きをすることが増えていた。


 なにせ田口の調理は危うい。焦げたにおいで起こされることも多々ある。もともと料理をすることは嫌いではないが、自分のために作るという面倒な労力は省いてきた。だが、今は違う。


 田口が来てからというもの、保住の生活は落ち着きを見せ、規則正しいものに変わっていた。そのおかげで体調もいいし、仕事の効率も上がっているようだった。


「お前と住んで、いいことがあるのかと思ったが……」


「ひどいですね。いいことずくしに決まっているじゃないですか」


「そうだな。……そうかもしれないな」


 保住は口元を緩める。玄関のドアを背に、からだを押されたかと思うと、彼の唇が保住の首筋に触れた。


「こうしていつでも保住さんの匂いが嗅げるの。すっごく幸せです」


「お前は匂いフェチか」


「どうでしょう。保住さんの匂いだけが好きです」


「変態め」


 彼の肩に手をかけると、田口の唇は、保住の顎のラインに合わせて上昇し、そして唇に触れた。自分の唇を軽く開いてやると、彼は嬉しそうにそこに口づけを落とす。


「今日も一日。しっかりと十文字の面倒みてやれよ」


 吐息交じりに囁くと、田口は「わかっています」と答える。


 同棲という決断は、二人の距離を一気に縮めた。こうして肌と肌を触れ合わせる機会が増えれば増えるほど、互いの気持ちを確認することができるからだ。気恥ずかしい思いが先行することもある。自分からは素直になれない保住だ。田口が素直な男で助かったと思った。


 視線を合わせ、笑みを見せあった後、二人は玄関の扉を開け、エントランスに足を踏み出した。外は夏のにおいがした。


 玄関扉を施錠してから、ふと田口を見上げると、彼がじっと保住を見下ろしていた。


「な、なんだ? なんか用か……?」


 そう言いかけたとき、再び彼が覆いかぶさってきて、口づけをされる。保住は慌ててからだを仰け反らようとしたが、腰に回ってきた腕に引き寄せられる。


「こ、この馬鹿! こんなところでするな」


「家の中だけですか」


「当然だろう!?」


「すみません。つい。クセです」


「クセとはなんだ」


「じっと見られると、キスしたくなるって言うか……」


「なんだ。そのわけのわからないクセは……。じゃあ、もう見ない」


「嘘ですよ。嘘」


「いやいや。本気の顔だ。せっかく心が落ち着いたのに。またざわつくではないか」


「キスされるとざわつきます? 少し嬉しいです」


「なにを馬鹿なことを……っ」


「だって。おれの行為で、保住さんの心が揺れ動くなんて——なんか嬉しい」


「意味がわからないことを言うな。一日気になる。考え始めると切りがなくなるではないか」


「あ! おれのこと一日考えてくれるなんて、嬉しいなあ」


 田口は笑顔を見せる。そんな彼を見て、呆れるしかない。ここのところ、田口の推しに参ってしまい、諦めて同意することも増えている。


 ——田口はこんな男だったのだろうか?


 田口はアパートの階段を下りて行った。保住もしぶしぶとあとに続く。朝は一緒に車で出勤をする。田口は『徒歩25分くらいの距離なら歩きたい』と主張するが、保住は断固拒否をした。


 圧迫骨折をしたのだから体力をつけたり、筋力をつけたりしないといけないと医師からも忠告されていたが、全く持って運動をする気持ちにはなれない。

 自分は根っからの運動嫌い。元々、運動神経はいいとは言えないタイプなのだ。


 保住は子どもの頃から、自分のからだをコントロールする能力が低いのだ。慣れている自宅であっても打ち身が絶えない。ドアにおでこをぶつける。角で指を挟む。階段で足を踏み外す。目も当てられないドジっぷりである。こんな調子だ。からだを動かす運動なんてできるはずもない。


 田口はどんくさそうに見えるが、それは見てくれの話。一緒に住むようになって、転びそうになったり、落っこちそうになるとすかさず支えてくれる。彼のおかげで大事に至らなかったことが何度あったことか。


 先日も「やっぱり、おれがいないと危なっかしいですね」とか生意気なことを言っていた。不本意ではあるが、助けられていると言うことは事実。


 ——まあ仕方がない。


 保住には田口が必要なのだ。保住をせかすかのように手を振る田口を見つめながら、保住の心は満たされていた。










  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る