第9話 おれ、同棲します!

 どこからともなく聞こえてくる音に、ふと目を覚ました。

 

 ——ここは……。


 見慣れない寝室。ここは田口の家だ。そう理解した途端、昨晩の出来事がフラッシュバックのように保住を襲った。あまりの恥ずかしさに、そばに丸まっていた毛布を引き寄せる。そして自分が裸でいることにも気がついた。


 大きくため息を吐く。自分の持ち物がどこにあるかもわからない。それになにより―—。腰痛がひどく、寝返り一つ打つのに苦労する有様だった。田口が大騒ぎをしないのだ。出勤まで時間の余裕があるのだろう。そう判断をして、ふとベッドサイドのテーブルに置かれている冊子に目が留まった。


 そこには不動産会社の名前が印字されていた。そっと腕を伸ばして、それを引き寄せる。中には、賃貸の契約書が入っている。


 ——どういうことだ?


 中身を確認しようとしたその時。人の気配がしてはったとした。視線だけを入口にやると、そこには、すっかり身支度を整えた田口が立っていた。


「保住さん、おはようございます」


「田口……。これはいったい?」


 彼はじっと保住を見据えていたが、すぐに駆け寄ってくると、心配げに保住を見下ろした。


「腰痛みますか。すみませんでした。本当にすみませんでした。おれ……調子に乗り過ぎて」


 保住は書類をそばに置くと、田口の頬に指を添えた。


「誰が悪い、という話ではなかろう。おれも同意した。痛み止めでも使えば、なんとかなる。それよりも、これだ。これはなんだ」


 保住は不動産書類に話を戻した。田口はそこで初めて、彼がその書類を見ていたことに気が付いたようだ。少々バツが悪そうに「それは」と言葉を濁した。


「賃貸だと? お前。マンションを持っているくせに、なにをし始める気だ」


 田口はしばしの間、黙り込んでいたが「よし」と心を決めたように頷いた。それから、保住にとったら衝撃の一言を繰り出した。


「ここのマンションを処分して、保住さんと一緒に暮らすことにしたんです」


「は、え?!」


 あまりの衝撃告白に、保住は反射的にからだを起こした。すると腰が変な音を立てた。


「ッッ……ッ」


 声にならない痛みとはこのことだ。前屈みになって、苦しんでいるというのに、田口は勝手に話を進めていく。


「すぐ引っ越していいですか?」


「お前の荷物が家に入ると思うか? おれの家に転がりこむつもりか?」


「なら、保住さんがこっちに来ます? 荷物少ないし。そっちでもいいですけど……」


「そう言う問題か? この家はどうする気だ」


「ずっと考えていて。不動産屋に相談していました。マンションだと人気が高いから、賃貸にもできるって言われて。ああ、その封筒。保住さんのアパートの不動産屋に駐車場の相談をしたんですよ。そしたら、一台貸せるって言われたので。契約書を送ってもらったところでした」


 どうやら田口は、一緒に住むことを少し前から考えていたようだ。保住は全く気が付いていなかったし、まさか自分たちが一緒に暮らすなど考えたこともなかったのだ。だから、急にそういわれても、返答に詰まる。無言で田口を見ていると、彼は不満そうに眉間に皺を寄せた。


「なにがいけないのでしょうか? 一緒に暮らしたほうが、貴方をしやすい」


「管理だと? おれは動物か」


「面倒じゃないですか。今晩はどちらの家に行くとか決めるの」


 田口は生真面目な顔をしていた。保住はあきらめるしかない。仕事では、どんな相手でも打ち負かすことができる保住だが。一番敵わないのは田口かもしれない。


 田口は「やっぱりおれが引っ越します。業者、大至急、探します」と話を進めていく。


「お前な……」


 どうやらなにを言っても無駄のようだ。一人でぶつぶつと話をしていた田口は、「あ、そうだ」と手を打ち鳴らすと、部屋から飛び出していった。


 ——今度はなにが始まるというのだ。


 彼はすぐに走って戻ってくる。彼の手には、鎮痛剤である座薬が握られていた。


「これ、挿いれましょう。じゃないと、ちっとも動けないようですし。仕事休むことになってしまいますよ」


「う、うるさい。寄越せ! 自分でやる」


「いいですよ。おれが挿れてさしあげますから」


「いい……いいって言っているだろー!!」


 田口は身動きが取れない保住の状況をいいことに、上から覆いかぶさってくる。「ひいい」と悲鳴を上げるが、田口は「いいことしているでしょう?」とばかりに、にこにこと笑みを見せていた。


「やめろ、田口!」


「ああ。一緒に住むの。楽しみだな。毎晩、保住さんのあんな顔や、こんな顔が見られるんですね」


「ふざけるな! お前、なに寝言を言っている! 毎晩なんて、たまったものではない」


「そんな。体力なさすぎなんですよ。鍛えないと」


 保住は必死の抵抗を試みる。しかし、体格の差や力の差は埋まらない。


「田口! 待て!!」


 つい口を吐いて出てきた言葉。田口はぴたりと動きを止めた。


 ——まるで犬じゃないか。


 保住は笑いそうになったが、そういう場合ではないと気を取り直す。それから、田口を見上げた。


「いいか。おれと一緒に住んでも、おれの生活には口を出すなよ? 約束だぞ。いいな?」


 裸で抑え込まれて、なんとも情けないかっこうで言っても説得力がないだろう。自分でもわかっていることだ。田口は全く怯むことなく、むしろパッと表情を明るくした。


「わかりました。守ります。ってことは、一緒に住むことには了解してもらえるってことですね?」


「しまった! そう言う意味では……」


 田口は腕を伸ばしてきたかと思うと、保住の腰を引き寄せた。素肌に触れる彼の腕は逞しい。明るくなると、なんだか気恥ずかしいものだ。


「嬉しいです。保住さん。一緒に住んでもらえないって、嫌われてしまったのかと思いました」


「……突然過ぎるから。抗議しているだけだ」


「わかっています。おれのこと受け入れてくれるんですもんね」


「とうの昔から。……お前だけは受け入れられるようだ」


「それは嬉しい言葉ですね」


「その代わり、八つ当たりも我がままも許せ」


「もちろんです。それは」


 田口の唇は暖かい。その唇で触れられた場所が熱を帯びる。保住はそっと腕を回して田口を引き寄せた。しかし——。ふと回ってきた彼の腕に引き寄せられたかと思うと、ベッドの上を転がされた。


「座薬挿いれます」


「そ、そうだった……! やめろーーー!」


 保住は悲鳴を上げた。格闘すること30分。座薬が効いて、なんとか出勤にこぎつけた彼である。




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