第8話 お預け犬の暴挙

「すまない。おれは……わからないのだ。仕事以外になると、まるきりダメな男だから。言い訳のようにしか聞こえないだろうが、これは事実だ。だから。お前の好きにしろ」


 困って縋るように田口を見る保住が愛おしくて仕方がない。田口は保住の耳元に唇を寄せた。


「わかりました。好きにさせていただきます」


 保住は震えていた。澤井と関係性を持っていた過去を知っている。こんなこと、どうってことないと思っていたのに。保住という男は、ともかく田口の心を揺さぶる。


 保住の手をとり、そっと口付けを落とす。それから、彼の指を口に咥えた。その様を見守る彼の瞳は熱で潤んでいる。そんな仕草一つで田口の欲情は容易に燃え上がった。


「田口……」


 吐息交じりの掠れた声。自分の名を呼ぶその唇が愛おしい。田口は今度はその唇に口付けを落とした。その口付けは、今までのどれよりも深い。


 軽く開かれた歯牙の間から舌を差し入れて、保住の口内をくまなく味わう。鼻から抜けるような吐息に気持ちはますます昂った。口付けを繰り返しながら、彼の腰を支えてソファに横にした。


 保住の腕が自分の首に回ると、ますます嬉しい気持ちになった。


「保住さん、愛しています」


 キスを繰り返しながら、時折堪らない気持ちを言葉にすると、保住はこれ以上もなく顔を真っ赤にして視線を伏せた。


 いつもは横柄な態度ばかりなのに。いじらしく感じられた。これが澤井が堪能していた時間かと思うと嫉妬する。彼を独占したい。彼の全てを味わいたい。そんな思いが余計に立ち上がった。


「腰、大丈夫ですか?」


 キスをやめてそっと耳元で囁く。


「——わからない、どうなるのか」


「痛む時は言ってください」


 囁きと共に耳に口付けを落とすと、保住のからだが跳ねた。


「……っ! 耳は嫌いだ!」


「嫌い?」


 ——嫌いというよりは。むしろ……。


「意地悪するな……ッ」


 保住は自分の耳を手で塞ぐ。それからジタバタとからだを動かした。まるで子ども。田口は口元が緩む。


「可愛すぎますけど、——保住さん」


「どこがだ! お前が、悪いっ!」


 ——いやいや。だって。


「誰の目にも触れさせたくないですよ。あなたのその顔」


「なにを——?」


 保住は男の情欲を煽る。これでは大友や澤井が夢中になるわけだ——。そう思った。


 ——手放さない。この人はおれのものだ。


 まるで壊れ物に触れるように、そっと彼の素肌に指を這わせていく。その度に見せる艶かしい保住の反応に、すっかり夢中だ。


 ワイシャツを引っ張り出し、背骨を確かめるように指でなぞる。その間にも何度も何度も口付けを交わした。


 ——おれは。この人が好きで堪らないんだ。


 からだを起こして、ワイシャツを脱ぎ捨て、そして素肌と素肌が触れ合うように抱き合うと、触れた場所から伝わる鼓動、そして熱に頭が真っ白になった。


「田口……」


「好きです。保住さんが好き。おれは貴方のものでありたい。貴方が求めるなら、おれはなんだってする」


 ——そうだ。おれは貴方の忠実なる犬。


「そんなことを言うな……」


 保住は潤んだ瞳で田口を見上げていた。


「お前はお前だろう。おれはお前に何度も救われた。おれの気持ちを疑うな。おれは、お前が……」


 保住の目尻から涙が一つこぼれ落ちた。


 ——こんなに満たされたことがあっただろうか?


 それを舌で拭ってから、田口は再び保住を抱き寄せる。


「いいのです。不安にさせて申し訳ありませんでした」


 ——嬉しい。幸せ。そんな気持ちで満たされる。


「泣かないでください」


「泣いてなんか……」


「泣いています。可愛すぎます」


「可愛い言うな。女じゃない。嬉しくなんかない……っ」


 幸せだった。田口の心はこれ以上もなく幸せで満たされていた。情欲に支配されて、我を失いたくない。しっかりとこの目に、保住の姿を焼きつけたい。田口は保住の頬に手を当てて、そっと撫でた。その手に保住の手が添えられる。


 ——時間がかかり過ぎた。けれど、これでいいんだ。これがおれたちなんだから。


 田口は時間をかけて保住を堪能した。髪の毛の先から爪の先まで。丁寧に。確認するかのように、彼のからだの隅々までを味わった。


 こうして肌を触れ合わせていても、どこか臆病な自分が顔を出す。どうしたものかと戸惑っていると、保住の細い腕が伸びてきて、田口の首に回る。いっきにからだがくっついた。


「保住、さん……?」


 保住は潤んだ瞳で田口を見ていた。鼻先が触れ合うくらいに近い。心臓が早鐘を打つ。と。「遠慮するな。こんな時まで」と彼が言った。


「——こんなことで、嫌いになどならないから。お前の好きにしろ」


 恥ずかしそうに視線を逸らす保住。田口の中の何かが外れた。タガが外れた、とでも言うのだろうか。飼い主に許可をもらった犬は、こんな気持ちになるのかもしれない。


「我慢するな。おれは構わない」


「でも……」


「いい。このからだ。お前にくれてやる」


 視線と視線がぶつかった。田口は笑みを見せてから「——はいっ!」と返答した。


 田口の中のタガが外れてしまえば、あとは本能のままにことを進めるだけ。田口は保住を気遣いながら。けれど、この気持ちを抑えきれずに彼を引き寄せてからだを重ねた。


 長く我慢してきた思いは、留まることを知らない。田口にとったら、言葉にしようもない至福の時間だった。思いを遂げた田口は保住の肩に額をつけて息を吐いた。


「本当は——もっとしたいです」


 保住は吹き出した。


「な、笑わないでください」


「だって。お前。粗相そそうをして怒られてる犬みたいだな」


「保住さん!」


 田口は耳まで真っ赤になる。嫌われてしまうのではないかと自信がなかったのだ。怖かった。けれど。こうして保住との関係性を進めてみると、怖いどころか、幸せな気持ちになった。


「後悔しています」


「なんだ。悪かったな。そんなに嫌か。おれとの……その、なんだ」


「違います! それは違います! 最高でした! 澤井さんに先を越されたのかと思うと、悔しいです」


「あいつの話はするな。興が削がれるだろう?」


 保住は不満げにそう言ったが、しばらくすると「ふふふ」と笑い出した。田口もつられて笑ってしまう。二人はいつまでもおかしいとばかりに笑った。


「保住さん!」


「え?」


 田口は保住を抱え上げる。


「もう一回、お願いします!」 


「は!? お、おい! おれはもう……」


「毎日でもしたいです! ずっとこうしていたいです」


「田口!」


 もう迷わない。自分は保住への気持ちに正直になる。そう決めたのだ。しかし、保住は迷惑そうに両手を振った。


「やめろ! 頼むからやめてくれ」


「いやです。もう一回、お願いします!」


 腰が引けている保住を引き寄せて、田口は嫌がる保住に唇を寄せた。






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