第6話 犬の逆襲






「ありがとうございました」


 田口は丁寧に頭を下げた。設備点検の業者はすっかり退散し、そのあと星野から星音堂のことを色々と教えてもらった。確かに、ここまで知る必要はないことなのかもしれない。自分は星音堂の職員でもないからだ。


 だが。知っているのと、知らないのでは大きな差がある。田口はすっかり星音堂のことが理解できて、嬉しい気持ちになった。朝は態度の悪かった星野だが。一日、こうして一緒に過ごしてみて、田口に随分と慣れてくれたのだろう。「今日は一日、お疲れ様だったな」と労いの言葉をくれた。


「最初はどうなるかと思ったよ。昼頃、『帰る』って尻尾をまくのかと思ったけど。なかなか根性あるな。あんた」


「田口です」


「そうだな。名前。あるもんな」


 星野は笑った。


「星野さんって、星野一郎と同じ苗字なんですね。偶然ですか」


「偶然ってなんだよ。確かに。星野一郎はおれの曽祖父になるけどよ」


「え!」


 田口は驚いた。こんなところで、彼の子孫に出会えるなんて思ってもみなかったからだ。


「だから、こんなにも音楽に造詣が深いのですね」


「好きなだけだ。だから、星音堂に配置してもらっている。それだけのことだ。特別なことなんてねーよ」


 星野はそういうと、朝に見せてくれた図面が入った茶封筒を田口に渡した。


「土産だ。困ったときは眺めてみろ。元気でるぞ」


「すみません。星野さんほどヲタクではないので、それはどうかと」


「うっせー」


 田口は星野や水野谷に頭を下げてから、公用車に乗り込んだ。時計の針は夕方の4時を回っていた。事務所に意識が向くと、途端に気持ちが憂鬱になった。保住はどうしているだろうか。なんと声をかえたらいいのだろうか。すっかり迷路に迷い込んでしまったようだ。出口にたどり着くには、困難が待ち受けている気持ちになったのだ。


 事務所に帰ると、さっそく不機嫌そうな保住の声が聞こえた。


「田口。遅い! これ直しておいた。さっさと再提出しろ。今日中な」


 田口はさっそくパソコンを立ち上げながら保住をちらりと盗み見た。彼は眉間にしわを寄せて、他の書類を精査しているようだった。こういうときは、報告をするタイミングではない。そう判断をし、立ち上がったパソコンから、保住に提出をした書類のデータを開いた。


「田口さん……」


 自分の書類を手直ししようとした瞬間。隣から、暗くて、消えそうなかよわい声が聞こえてくる。田口は驚いてからだをのけ反らせた。


「驚かすなよ。十文字……」


「——星野一郎記念館のサロン企画書作れって、係長に言われたんです。資料みました。なんとなく理解したような気がしたので、初稿を出してはみたんですが……」


「早いな。おれなんて、初稿を出すのに、もっと時間がかかった」


 ——しかも、文章では出せなくて。口頭でオッケーをもらったんだっけ。


「しかし。なんでそんなに暗いんだよ」


 それに答えたのは、斜め前に座る谷川だ。


「玉砕したにきまってるだろう? それから係長のご機嫌が悪くなっちゃってさ。『田口に聞いてから出せと言っただろう?』って。おれたちも困ってるんだよ。お前が一日中、留守にするから悪いんだぞ」


「おれのせいじゃないですよ」


 しかし渡辺も首を横に振る。


「係長の我がままに対応できるのは、お前だけだって。多分、お前が一日いないから、不自由すぎてイライラしているんだと思うぞ」


 渡辺は十文字に声をかけた。


「とりあえず、田口は自分の直しで手一杯だ。明日の朝にでもちゃんと話を聞いてから、初稿を再提出しろ。今日はもう帰って休んだ方がいい」


 四人がぼそぼそと言葉を交わしている中、保住は精査を終えた書類を握って、課長のところに出かけて行った。渡辺はそれを見送ってから、十文字に「付き合え」と言った。


「相談に乗ってやるから。谷川も来るっていうし。な?」


 谷川は頷いた。しかし。田口は保住から修正を指示された書類が残っていて、とても十文字の面倒を見ている場合ではない。「すみません、おれは……」と頭を下げると、渡辺は「お前はいいよ」と手を横に振った。


「新人君はおれたちに任せな。お前は係長のご機嫌をなんとかしておけ」


 定時のチャイムが鳴り響く。渡辺と谷川は消沈している十文字を連れて、事務所から出て行った。


***


 三人を見送ってから田口は、自分の仕事を続けた。しかし。保住の機嫌の悪さは相当だ。一日出ていた自分も悪いが、夕方に返して今日中の再提出など、横暴極まりない指示だ。


「なんだ。みんな帰ったのか」


 保住は席を立った時以上に不機嫌そうなオーラがにじみ出ている。4月から配属された課長の野原とは相性が合わないようだ。事務局長が佐久間になり、その点は仕事がスムーズに動くようにはなったものの、野原という男は細かいところを気にするタイプのようで、はったりが効かないようだ。保住の仕事の仕方は、澤井に似ていて、多少、強引に押し通すことも多い。それが野原には効かないのだ。面白くないのもうなずける。


「みなさん帰宅しました」


「そうか。——お前は?」


「帰れるわけないじゃないですか。先ほど、貴方に課せられたノルマがあります」


「のんびり外勤になんて行っているからだ」


「許可された外勤です」


「お前が行きたそうな顔をしてみているから、渋々許可した。それだけだ」


「おや。それはおかしいですね。不要な外勤なら切り捨てる。それが保住さんらしさではないですか」


「おれらしいだと?」


 保住はますます不機嫌そうに目を細める。


「おれのなにがわかる。お前などに―—」


 さすがの田口もむっとして手を止めた。


「おれは……。貴方のなんですか」


「部下だ」


「部下に八つ当たりするのですか。保住さん。かなりご機嫌が斜めのようですね。おれが一日中、外勤をしているのが面白くないのですか。それなら、そうと。最初から外勤を許可しなければいいではないですか」


 保住は珍しく黙り込んだ。図星なのだろう。田口の心もずっと荒れている。今まで押し込めてきた思いが口をついて流れ出した。


「貴方は部下の顔色を窺って仕事をする人ではないはずだ。おれが星音堂の設備点検についていくことを許可したのには、理由があるはずです。それをなんです」


「な、なんですとはなんだ。そこまで言うなら、今日の報告はどうしたのだ。さっさと報告しないか!」


「それはあとです。今はこの文章の手直しが先なのでしょう? 貴方がそう指示したのだから……」


 保住はおもろくない様子で、横に立つとキーボードを手で叩いた。せっかく打っていた書類は、めちゃくちゃだ。


「係長! なんてこと……」


「今日の報告が先だ」


 保住の視線は定まらない。田口は、はったとした。


 嘘をついているとき。どうしたらいかわからないとき。保住はこういう仕草を見せる。


 ——ああ。おれが悪いのか。こんなに追い詰めたのはおれだ。


 他の部署にも残業をして残っている職員たちがいる。その中で、騒ぎを起こすのは得策ではない。田口はすっと立ち上がると、保住の腕を捕まえた。


「ここでは話ができません。今日は帰りましょう」


 しかし保住は不満そうに声を上げた。


「離せ。まだ業務が残っている。おれは帰らない。お前とは話すことなどないっ」


 強い拒否反応を示す保住。田口が握っている腕に力が入っているのがよくわかる。保住は怖がっているのだ。怯えているというのだろうか。こういう局面では、田口のほうが冷静に対処できることを、自分でよく理解していた。


「いいえ。申し訳ありませんが、こちらのほうが最優先事項だと思います」


 声を潜めて耳元で囁くと、保住は黙り込んだ。田口は保住の腕を握ったまま、さっさと帰り支度を整えると、自分と保住の荷物を抱え、保住を引っ張ったまま歩き出した。









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