第5話 恋する乙女
田口の後ろ姿を見送ってから、保住は軽くため息を吐いた。田口との距離感が推し量れていない。互いの気持ちを確かめ合う前は、あまり意識をせずに一緒の時間を共有していたというのに。変に意識してしまっているのだろうか。
恋愛経験がないわけではない。だが。結局のところ、いつも成り行きで女性と付き合うことが多く、自分がリードするなんてことは今までにないことだった。だから、「付き合う」ということが、どういうことなのか。さっぱり見当もつかないのだ。
しかも田口の戸惑いがひしひしと伝わってくる。彼はどこか焦燥感に駆られているようで、どう声をかけたらいいのかわかくなってしまうのだ。そうなると、結局は黙って様子を見るばかりになってしまう。
今日の星音堂の設備点検へ同行したい、と彼から申し出があったとき。正直に言うと、内心ほっとした部分もあった。こうしてすぐ近くに彼の存在を感じるだけで、保住の心は激しくかき乱されて、自分を保てなくなる気がしたからだ。
―—あいつとの距離を取りたい、なんて。なんて贅沢な悩みだ。
自分の身勝手な思いに、ほとほと呆れ、そして持て余す。自問自答しても、答えが見えるはずもない。思考がぐるぐると空回りをしているばかりだった。
澤井がいた時は、そのやり取りの中で自分の気持ちを整理していたのだろう。彼がいなくなると、こうも自分の気持ちの整理ができないなんて、本当にお粗末だと思った。
「係長。お昼ですよ」
ふと顔を上げると渡辺がこちらを見ていた。
―—不機嫌な顔を見られたか?
だが渡辺は自分のお腹をさすりながら「腹減ったな〜」と苦笑いをしている。少しほっとしてから部下たちに声をかけた。
「どうぞ。休憩に入ってください」
「係長もしっかり食べないといけませんよ。せっかく腰も治ってきたところなんだから、きちんと食べて行かないと、筋肉がつかないですから」
「そうですね。……確かにそうですね」
渡辺はご機嫌な様子で愛妻弁当を取り出した。谷川は、ここのところ食堂に行っているようだ。保住は――。今朝は寝坊をして、なにも考えていなかったことを思い出す。
昨日は十文字を連れて、県庁へ打ち合わせに行った。菜花との話は盛り上がり、あっという間に時間が過ぎ去った。帰り道、遅くまで付き合ってくれた十文字に御礼をしようかと、庁舎近くの居酒屋赤ちょうちんで夕飯をごちそうしたのだ。
新人をフォローするにはちょうどよい機会だと思ったからだ。今朝、みんなの前でそのことを言わなかったのは、他の職員とのバランスを取るためだった。いくらうまく回っているチームでも、上司が一人だけを特別扱いしていたのでは
別に嘘は言っていない。帰宅してから、溜まっていた書類の精査をしていたのは事実だ。ただ、十文字と飲みに行ったことを言わなかっただけ。
しかし、あの時の田口の視線が頭から離れない。もの言いたげな、落胆したような色。
——あんな顔、させたくないのだ。
保住は不甲斐ない自分に腹を立てながら席を立った。
「売店に行ってきます」
すっかり弁当を食べ始めていた渡辺は「いってらっしゃい」とにこやかに手を振った。廊下に出ると、ほっとした。一人になりたい気分らしい。しかし、後ろからバタバタと十文字が追いかけてきた。
「おれも、いいですか?」
面倒だと思いながら「売店に行くだけだ」と答える。彼は「おれも売店です」といった。二人は並んで階段を下りる。田口と並んで歩くときとは違う。なんだか居心地が悪かった。
「そういえば、お前は弁当持ちじゃないな。実家暮らしではないのか」
「実家からは出ました。社会人ですし、いつまでも世話になるのもなーって思って。まあ、ボロアパートなんですけど」
「住まいなんてどこでも構わないだろう。おれも似たようなものだ」
「そうなんですか? 係長なのに、ボロアパートだなんて。なんかいいマンション住まいなイメージですけど」
「おれなんかより、田口の方がいいところに住んでいる」
「田口さんが? 意外ですね」
十文字は意外そうに目を見開いて笑う。
「せっかくマンションなんて住んでいるくせに、仕事仕事で、寝に帰るようなものだろう」
「それはみんな同じですね……。こんな調子では、恋人とうまくいかないんじゃないですか? ここの部署。既婚は渡辺さんだけですもんね。谷川さんは彼女探しに躍起になっているってよく言っていますけど。係長と田口さんの恋愛話は一つも聞いたことがありませんね。係長は彼女いるんですか? あ、いますよね。失礼な質問でしたね」
「彼女……」
保住はふと、田口を思い出して笑いそうになった。
——あいつは、彼女と呼べる
「あ! 今、誰か思い出して笑いましたね」
「笑ってなどいない。彼女と呼べる代物なのかどうかは分からないが。『いる』、『いない』て言ったら、恋人はいることになるのだろうな」
「なんとも微妙な言い方ですね」
「恋愛とは、複雑で難解だ。……うまくいかないものだな」
「係長でもそんなこと、あるんですか?」
売店は第一弾の人の波が去って閑散としていた。十二時前に並べられていたお弁当は、三分の二以上がなくなっている。おばちゃんの冷たい視線を受けながら、二人は中に入った。
「仕事以外のことは、全てうまくいかない」
「意外です。なんでも要領よくやっちゃうタイプだと思っていましたけど」
「そういうお前はどうなのだ」
「まあ、おれも似たようなものです。恋愛は全然うまくいきませんよ」
十文字は大きくため息を吐いた。
「お前でもそんな悩みあるんだ」
保住は「意外だ」と思った。十文字という男は、今風のおしゃれに敏感なタイプだ。庁内の女性陣が放っておくわけがない。だが——。彼は彼なりに悩みがあるようだった。
「おれの人生、悩みだらけです。仕事はできないし。恋愛だってうまくいきませんから!」
彼はカップラーメンを手に力を入れて言い切った。保住は苦笑するしかない。
「そうだな。こんな時になんだが。星野一郎記念館のサロン企画書を作ってもらう。詳しい内容は田口から引き継ぐようにな」
「サロンの企画? 演奏会かなんかですか。難しそうですけど、面白そうですね」
「だろう? 田口が泣きべそかいた仕事だからな」
「田口さんが?」
十文字は愉快そうに笑ってから保住を見つめた。
「あの、ずっと思っていたんですけど……。係長は、田口さんが大好きなんですね」
「え?」
弁当を手に取っていた保住は、それを落としそうになった。動揺してしまったのだ。
「な、なにを……」
「だって。そうじゃないですか。口を開けば、田口さんんことばっかりだし。それに。田口さんの話をするとき、すごく目がキラキラして恋する乙女みたいですよ」
保住は耳まで熱くなるのを感じた。思わず口ごもってしまう。「バカなことを言うな」と小さく呟くことだけで、精一杯。
——お粗末。
一人で動揺している保住を後目に、十文字は保住の脇から、その長い腕を伸ばしておにぎりを一つ取った。
「本当のことなのにな。おれ、結構そういう勘当たるんですけどね~」
彼は悪戯な笑みを見せたかと思うと、そのままレジに向かっていった。それを見送った保住は、手に取ったお弁当を食べる気にもならない。
昨晩。赤ちょうちんで酔っていた。ところどころ記憶が曖昧だ。十文字に、田口との関係性を感づかれるようなことを口走ったりはしていないだろうか。そう考えると、心配になってきた。保住は弁当を棚に戻すと、隣のサンドイッチを手に取った。
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