第4話 星音堂の職員
田口の心の中は嵐が吹き荒れていた。自分で自分が制御できない。イラついた気持ちのまま、じっと応接セットのソファに座っていた。
「同席なんかしていただかなくても、結構ですけど……」
向かい側に座る、
「いえ。星音堂のことを詳しく知りたいのです。別に構いませんよね? それとも、おれが同席することに何か不都合でもあるのでしょうか」
田口は黙っていれば、温厚な印象を与える。そんな彼が、言葉尻をきつくして言い返したのを見て、安齋はため息を吐いた。
「いいえ。前例がなかったものですから、一応、お話しさせてもらっただけです。ただし一日かかりますよ」
「構いません」
そばにいた星音堂長兼課長の水野谷は、愉快そうに笑った。
「いいじゃないの。安齋。田口くんの好きにさせてあげましょう。田口くん、思う存分、星音堂を堪能してくださいよ」
丸メガネで人の良さそうな穏やかな男性だ。彼は、細身の体型にベストを上品に着こなす。学習院出のお坊ちゃんだと保住が言っていたことを思い出した。田口には横柄な態度を見せる安齋だが、上司である彼の言葉にただ黙り込んでいた。
田口は頭を下げた。
先日、渡辺から星音堂の設備点検が入ることを聞き、立ち会いたいと思った。渡辺からは今までそんなものに立ち会った職員はいない、と止められたのだが、田口にしてみれは、こんなチャンスはないと思った。
今年から担当になった星音堂のことを少しでも知っておきたい。そういう思いがあった。心のどこかで焦りがあった。音楽経験があり、仕事を覚えるのも早い十文字に負けたくないという焦りだ。本当に意味があるのかないのかはわからない。
ただ。設備点検に立ち会いたいと申し出たところ、保住からすぐに許可が下りた。だから、そう無駄ではないと確信していたのだ。
「点検は10時からですから。もう少し時間があります。それまで、図面でも見ていますか」
安齋はめんどくさそうに田口を見た。
「是非、お願いします」
嫌がられたり、面倒がられたりするのは承知の上だ。田口は真っ直ぐに頭を下げる。安齋はふと視線を上げると「星野さん」と別の職員を呼んだ。
「この人に図面見せてあげてくれませんか。おれ、別件で電話をしなくてはいけないので」
「はあ? 面倒くせーな。お前がやれよ。その電話終わってから」
『面倒だな』
最初の頃、保住にそう言われたことを思い出す。
——自分は、面倒な男なのだろうか?
なんだか心に棘が刺さったみたいに痛む。保住との関係性が、少し揺らいだだけで、自分に自信が持てない。自分はこれ以上のことはできない。こういうやり方しかできないのだから。他人から「面倒だ」と言われても、それを変えることはできるはずもなかった。
星野はぶつぶつと文句を言いながらも、近くの書棚からA3サイズのファイルを取り出した。口が悪いが、どうやら図面の説明をしてくれるらしい。
星野。星野一郎と同じだ、と田口は思った。自分たちよりは年上だろうか。無精ひげを生やしていて、髪の毛はボサボサ。シャツもよれよれ。ネクタイは緩く引っかかっているだけ。保住よりもひどい風体に、田口は苦笑いをした。
保住と出会う前の自分なら、彼のことを到底受け入れられなかっただろう。だが、この数年間で田口の許容範囲は、色々な意味で広がっている。世の中にはいろいろな人がいるっていうことを、十分に理解した。人は見た目だけではない。そういうことだ。案の定、安齋は星野の能力を高く認めているようだった。
「星野さんほど、わかりやすく説明できる人、いないじゃないですか」
「うっせー。さっさと電話しろ。そして代われ。この野郎」
安齋は微笑を浮かべると自席に戻った。星野は田口を呼びつける。
「こっち来いよ、兄ちゃん」
星野は、「ち」と舌打ちをしてから、事務所の奥にある小さい会議室のような部屋に田口を招き入れた。彼はファイルを広げると、田口の見えやすいようにひっくり返した。それから、ぶっきらぼうな口調で、淡々と説明を始める。
「星音堂には大小二つのホールがある。大ホールは千人が収容できるホールだ。特色としては県内唯一、パイプオルガンを備えているわけだ。このオルガンはドイツから取り寄せたやつだ。設計は―—」
星野から聞く内容は、事前書類で頭に入っていることも多いが、こうして直接教えてもらえると、なおわかりやすいものだと思った。星野は何もみていないというのに、さらさらと星音堂のことを流暢に話す。ひと段落したところで、田口は感嘆の声を上げた。
「星野さんって、素晴らしいですね」
これは田口の素直な気持ちだ。星野は眠そうな目をしていたが顔を真っ赤にした。
「ば、バカ言うなよ。なんだよ。それ」
「え? 変なこと言いましたか?」
「言ってるだろう。お前、本当にバカ野郎だな!」
星野というおとこは、いわゆる「ツンデレ」というジャンルにカテゴリーされるのかもしれない。なんだか保住を彷彿とさせられた。
——保住さんも、照れて冷たく当たってくるときがあるけれど。……さすがに今回は違うよな。
田口の心の中は複雑な思いが渦巻いていた。十文字と食事をしたことくらい。自分に教えてくれてもいいはずなのに。なぜ言わないのだろうか。別に怒りはしないのに。面倒なことが嫌いな人間だということも理解している。だが―—。
——やっぱり。話して欲しい。なにもないなら。ね。
考えすぎたということも理解している。二人で食事をしたとしたって、何事かがあるはずもないのだ。男女の仲でもない。けれど。
——保住さんは、かわいいんだ。澤井局長だって、落とされたんだ。十文字みたいな単純な奴はもっと簡単に違いない。
田口は保住に夢中だ。彼のことになると周囲が見えないのだから。仕事中だというのに、結局は保住のことばかり考えている自分がいる。ぼんやりと星野を眺めていると、そこに安齋が顔を出した。どうやら時間になったようだ。彼は星野を見るなり眉間にしわを寄せた。
「星野さん。なんですか。その嬉しそうな顔」
「うるせえ。お前に言われたくねえし。さっさとこの兄ちゃんの面倒みろや」
星野は照れ隠しなのか。顔を赤くしたまま、ファイルを安齋に押し付けると、会議室を出て行った。
「田口さん。星野さんになにをしたんですか?」
安齋はじろっと見つめる。
「え!? なにも。ただ、説明がわかりやすかったので素晴らしいと言っただけですけど」
「ああ、それは……」
安齋は微妙な表情をした。
——なにか悪いことでもしたのだろうか?
星音堂の職員は一癖も二癖もある。田口には理解できないことばかりだった。安齋は「時間です。どうぞ」と言った。彼に連れられて事務室に戻ると、そこには作業服とヘルメットを被った男たちが十五名ほど廊下に並んでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます