第3話 嘘



 その日の夕方、四時を回った頃、事務局長の佐久間が顔を出した。


保住ほうちゃん、ごめん。おれ、これから会議なんだけど、県から呼び出しきちゃってさ。こんな時間なんだけど行ってきてくれない?」


「おれでいいですか。課長のほうが……」


「それがね。のーちゃん、午後から出張なんだよね。どうやら、星野一郎がらみのことみたいだから。ほうちゃんが一番いいかなって思うんだ」


 佐久間が「のうちゃん」と呼ぶのは、課長の野原のことだ。彼はみんなのことを、あだ名めいた呼び方をする。佐久間は本当に「悪いな」と何度も手を合わせて見せた。上司にこうも頭を下げられてら断るわけにもいかない。保住は「お任せください」と答えた。


「助かる! ありがとね。報告は明日でいいから。終わったら直帰ちょっきして」


 保住はふと十文字を見る。


「いえ。星野一郎のことであれば、十文字を連れて行くので一度戻ります」


 十文字はキョトンとしていたが、「はい!」と頷く。


「そう? 任せるよ」


「ありがとうございます」


 佐久間は申し訳なさそうに頭を下げると姿を消した。それを見送ってから保住は十文字を見た。


「聞いた通りだ。残業になる。すまないな、十文字」


「いいえ。大丈夫です」


 ——また二人で……。わかっているけど。


 ヤキモキする気持ちが更に膨らんでいった。仕事なんだから仕方ないじゃない。もう記念館の担当は自分ではないのだから。外出の準備をし始めた保住に、田口は慌てて声をかける。


「係長。依頼状の初稿は……」


 仕事に夢中になると周りが見えないのは仕方のないことだが、田口の気持ちなんて一つも理解していないのだろう。保住はあっさりと「それは明日にする」と言った。


 ——今日中にって言ったじゃない。


 ぼんやりしていて効率も上がらない中、なんとかしようと奮闘していたのに。田口の心には闇が溜まっていく。


「大変ですね」


「お疲れ様です」


 渡辺たちに見送られて姿を消す二人。田口はどうしたらいいのか、見当もつかなかった。結局、しばらく残業していたが保住たちは帰ってこなかった。


 渡辺や谷川が気を遣ってくれたようだ。どうせ明日に回った仕事だ。明日にしろと説得されたのだ。


 自分では隠そうとしても、負のオーラが滲み出てしまっているのだろうか。二人は、田口を飲みにでも——と誘ってくれた。しかし、とてもそんな気持ちにもなれない。二人の好意をありがたく受け取りながら、体調が優れないとお断りをしてから自宅に帰った。


 保住との付き合い方がわからない。


 ——どうしたらいいのだろうか。


 彼がなにを考えているのかわからないのだ。


 お付き合いをするなんて、本当に久しぶりだし、そう経験豊富なわけではない。それに輪をかけて、相手は生まれて初めての男性だ。そして上司。


 好きな気持ちは変わりがない。むしろ、恋心を自覚した時から比べると、その想いは大きく膨らんでいる。けれど。それだけではどうしようもないこともわかっていた。言葉や行動にしなければ。保住には伝わらない。なのに。臆病になりすぎて、どうしたらいいのかがわからなくなっていたのだ。


 このままではいけないと思った。昔から、思いを溜め込んで。そして、突拍子もないことをしでかす。だから、早くなんとかしないと。


「保住さんを傷つけるかもしれない」


 一人の帰り道。田口は大きくため息を吐いた。


 そして翌朝。出勤すると、珍しく十文字が先に来ていた。


「おはようございます」


 昨日は残業だったわりに、彼は爽やかな笑顔を見せる。一方の自分は一体どんな顔をしている?


 田口の気持ちは沈み込む一方だ。


「おはよう。早いね」


「昨日、帰るの遅くなっちゃって……仕事が中途半端だったなと思って、早く来ました」


「そんなに遅くなったのか?」


「県の話は大した内容じゃなかったです。星野一郎の企画展を県で開催するんですけど、記念館でも同時コラボ企画を立ち上げて欲しいって、菜花さんが。菜花さんもあんまり乗り気じゃなかったみたいですけど、知事自らの発案なんですって。さすがに、無碍にもできないって言っていました」


「そう……」


 田口の心臓は鼓動を早める。十文字は笑みを見せて続けた。


「係長は、随分と渋っていましたけど。菜花さんの頼みですしね。記念館にも悪い話ではないから、結局受けることになって。そこから企画の打ち合わせになったんです」


「そうか……」


「あの二人、すっごいですね! 企画。あっという間に決まって。詳細とか、予算まで。おれ、唖然としました。ハイスペックの二人の間には到底入れませんね。ああ、あんな風に仕事できるようになりたいですねー。県庁出たのが8時過ぎていて。係長が夕飯おごってくれました!」


 十文字は田口の様子になど気がつかない様子で、矢継ぎ早に昨日のことを語った。


「係長って、お酒入るとツンツンした感じじゃなくなるんですね。ふにゃって感じで可愛かったです。あ! 仲良しの田口さんに、こんなこと言ったらいけないですよね。すみません。朝から」


「いや。別に」


 ——気にしているくせに。気にしているくせに!


 田口の手に握られていた書類がくしゃくしゃになった。そこに渡辺が顔を出す。


「おう。十文字! 昨日は遅くまでお疲れ様」


「あ! 渡辺さん! おはようございます」


 二人はなにやら会話をしているが、田口の耳には入ってこない。そのうち、谷川も出勤してきて、振興係は賑やかになる。8時を過ぎて、いつもよりもだいぶ遅れて保住が姿を現した。


 寝不足の時の様相だ。寝癖がひどい。渡辺はその様子に苦笑してみせた。


「おはようございます。係長。昨日は飲みにでも行ったんですか? 格好が酷いですよ」


 渡辺の問いに保住は首を横に振る。


「いや。夜遅くまで考え事をしていただけですよ。すみません。どうも、朝は弱くて」


 ——十文字と飲みに行ったのに。


 保住はそれを口にしなかった。十文字もなにやら秘密を共有している嬉しさからなのか、口元が緩んでいる。田口はますます面白くなかった。


 心がざわついて不安でいっぱいになる。保住は席について落ち着くと、田口を見た。


「田口、すまなかったな。昨日の書類は……」


 彼の差し出した手に、田口は乱暴に何枚かの書類を渡した。


「これです。見てくださいっ!」


「おい。田口。大丈夫か?」


 食い入るように保住を見つめていると、彼は身を引いた。その間に渡辺が割って入ってきた。だが、そんなことでは引き下がれないくらい、心がぐらついていて、周りが見えない。田口は両手をついて立ち上がった。反動で、そこにあった書類が何枚か宙を舞う。


「今日は一日、星音堂せいおんどうの保守点検に立ち会いです! 夕方に戻りますから、それまでに添削お願いいたします!」


 それだけを言い残すと、事務所を後にする。ここにはいたくなかったのだ。



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