第18章 飼い犬に手を噛まれる

第1話 危機感


 二日後——。


「いいだろう」


 保住のその一言に、その場の張りつめた空気が、一瞬で緩んだ。保住の隣に直立不動していた十文字だけではなく、田口も心底ほっといしたのだった。新人十文字の成長を、じっと黙って見守ってきたのは田口だけではなかったようで、渡辺や谷川は両手を合わせて喜んだ。


「報告書。それでいい。次の書類作成に取り掛かれ。随分と遅れているぞ」


「は……はい!」


 十文字は嬉しそうに頭を下げると、保住から返された報告書を両手で抱きしめた。


「おめでとう! 十文字」


「ウェルカム・トゥー・振興係!」


 渡辺や谷川は笑顔を見せて、十文字を歓迎した。

 田口は懐かしい気持ちになった。文章作成に厳しい保住から「いいだろう」と言われたときの喜びは計り知れない。十文字もやっと振興係での第一歩が踏み出せた、ということだ。


 ——今はそれでいい。これでいいんだ。


 これから、十文字を待ち受けているのは地獄の企画書だ。田口が人前で大騒ぎをしでかした、あの企画書。今年は十文字が記念館の担当になるから、当然のようにあれが回ってくるのだ。


「ありがとうございます。ありがとうございます!」


 十文字はみんなにぺこぺこと頭を下げながら自分の席に戻った。


「田口さん。ありがとうございました。いろいろアドバイスをいただいて。本当にありがとうございました」


 十文字は再び、田口に向かってぺこりと頭を下げた。


「それはよかった。また頑張って」


「はい。あの」


 彼は言いにくそうに田口を見つめていた。


「どうした?」


 十文字は声を潜めて田口に言った。


「頑張るなんて嫌で。逃げていて——性に合わないって思っていましたけど、人生で初めて頑張ってみたら、結構、楽しいものなんですね」


 十文字とは、思ったよりも素直な男らしい。こうしてストレートに感謝されてしまうと、気恥ずかしい思いになった。


「そうだな。頑張るって辛いけど。成し得た時の喜びは倍増するものだ」


「その通りでした。おれ、仕事への姿勢を考え直します。市役所職員って、面白い仕事なんじゃないかって、やっと思えるようになってきました」


 たった報告書一枚の成功だが、十文字にとったら、それは大いなる一歩だったようだ。いつまでも書類を見つめていつまでも喜びに浸っている十文字の横顔を見ていると、内心、笑ってしまうが、自分もそうであったに違いない。


 ——これが、後輩を育てること、ということか。


 十文字と一緒に自分も嬉しい気持ちに浸っていると、保住が十文字の名を呼んだ。彼はすっかり椅子かた立ち上がっている。


「財務との会議を見せてやるから、一緒に来い」


「はい」


 すでに歩き出している保住に置いて行かれないようにと、十文字は書類をそのままに、慌てて保住を追いかけていった。二人がいなくなってしまうと、ふと谷川が田口を見た。


「よかったな。田口」


「おれはなにも……」


「いやいや。影ながらのサポートが大変だっただろう? ここのところ遅くまで残っていたもんな」


 渡辺は見ていないようで見ている。係内の細かいところまで把握している。保住が父親的存在だとしたら、渡辺は母親だ。保住と渡辺との役割分担がうまくいっているおかげで、雰囲気よく仕事が進むのだということを、田口は理解していた。


「残業なんて、いつものことですから。どうせ自分の仕事もありましたから」


「それが大変なんだって。自分の仕事もあるのに、人の仕事まで背負うのは大変なものだ。後輩の指導をうまくできるようになれば、お前も一人前だな」


 褒められることには慣れていない。なんだかくすぐったい気持ちになる。顔が熱くなる気がした。


「そろそろお前が悩みに悩んだ星野一郎記念館のコンサート企画の時期だ。係長は十文字にやらせるみたいだし。また大変だろうけど、サポートしてやれよ」


 田口は「はい」と返答をし、それから保住の座っている場所に視線をやった。



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