第5話 変わりたい。変われる…?



 時計の針は定時を過ぎていた。渡辺は娘の送迎があると言う。谷川は珍しく友人主催の合コンに誘われていると言って、先に帰って行った。保住は会議で出ていったきり。まだ姿を見せない。部署に取り残されていたのは、田口と十文字だけだった。


 田口の隣にいる十文字は、パソコンを叩く手を止めている。時折ため息が聞こえてくる。気にしないようにデスクトップを見つめるものの、十文字の気配が気になって仕方がない。田口は自分の仕事に戻ることを止め、「で? なにを悩んでいる?」と問いかけた。


 十文字は「いえ」と取り繕ったように声を上げた。


「別に」


「集中できていないようだ。行き詰っているんじゃないのか? 一人で悩んだって意味がないんだ。なにかあるんだったら話してみればいいじゃないか」


 十文字は眼鏡をづり上げると、恥ずかしそうに頭をかいた。


「えっと……。報告書が通りません」


 今まで順風満帆だったのだろう。自分もそうだった。いや、うまくいっていたわけではなかった。ただ、上司が適当で、どんな書類でもあればいい、くらいの人ばかりだったのだ。だから、挫折など味わうことなく、問題なくここまで仕事をしてきたと思いってただけの話だ。


 けれど、ここは違う。保住は一切の妥協を許さないのだ。だから、田口も苦悩した。まるで数年前の自分を見ているようだった。自分は成長したのではない。ただ、立場が違っているだけ。だから、偉そうにアドバイスをできるほどでもないのだが……。立場が違うからこそ、見えるものもある。そう思った。


 田口は十文字にからだを向けた。


「おれもね。最初は全く通らなかった。報告書一枚に、一か月かかったこともある」


「そんなに? ——ですか」


「多分。おれのほうがお前よりどんくさいし、要領も悪いから。お前は一か月もかからずに通ると思うけど」


「そんなことないです。田口さんのこと。係長は全信頼していますもんね……」


「信頼なんてされているのだろうか。何年いてもお荷物だ」


 十文字は首を横に振った。


「田口さんって、本当に自己評価低すぎですね。おれはそうは思わないけどな。——田口さん。いいですか。係長の信頼を得ている田口さんだからこそ、相談してもいいですか」

 

 十文字という男は、人がいいと思った。田口は苦笑して「どこが悩み?」と尋ねる。すると、十文字は赤ペンだらけの報告書を取り出した。


「この表現が違うって言うんですけど。悩みます。前回はこう書きましたが、ダメでした」


「なるほどね」


 書類を眺めてみると、田口と同じようなミスをしているようだった。報告書の形になっていないのだ。じっとその報告書を見ていると、十文字は言いにくそうに切り出した。


「係長って優秀だってことはわかりました。けど結構、変わっていますよね。本当についていっていいものなのでしょうか? の書類。内容よりも期日優先でした。こんなに期日を過ぎていてもいいものなのでしょうか」


 十文字の思いは、当時の自分と同じ。田口は「そうだね」と返答する。十文字は、田口が同じ思いであると理解したのか、嬉しそうに笑みを見せた。しかし。田口は声色を低くして問うた。


「だけど、それでお前はいいのだろうか」


 田口は続ける。


「不本意な、納得のいかない報告書を出して。お前はそれでいいのだろうか」


 十文字は言葉に詰まり、黙り込んだ。妥協していることを一番理解しているのは、自分自身だ。自分の心を偽って。それでいい仕事をしたとはいえないのだ。田口はそれをここで学んだ。


「でも。期日が……」


 十文字は視線が泳いでいる。動揺しているのだ。正しいことを言っているはずなのに、それが正解ではないということを知っている証拠だ。田口は苦笑した。


「それはを付けているだけだろう」


「理由——ですか」


「そうだ。できない理由だろう?」


 十文字はとうとう言葉が出なくなってしまったようで、黙り込んだ。彼を責めているわけではないのだ。ただ。十文字という男は素直だから。きっと田口の言葉が伝わると思った。だから、田口は伝えたいと思った。


「文書って読めば書き手の能力が推し量れてしまうものだろう? いい加減な書類で推し通す。それで本当にいいのだろうか」


 田口は引き出しの中から、クリアケースに入った書類を取り出した。これは、田口がここに配属されてすぐに保住とやり取りをした書類。何度も何度もやり取りをしたおかげで、原文が見えないくらいだ。


 保住は赤ペン。自分は青ペン。田口はこの書類を何度も眺めては反省し、そして手本にしていた。だから、これは。田口の宝物。バイブルだ。こんな恥ずかしいものを人に見せたことはなかった。だが。十文字はわかってくれると思ったから。敢えて見せることにしたのだった。


 十文字は笑うだろうか。

 馬鹿にされるだろうか。


 だが——。十文字はその書類を受け取ると、はっと息を飲んでから押し黙った。


「田口さん」


「おれは馬鹿だからね。こうして時間がかかるんだ。だけどあるレベルまでは持っていきたい。終わりはないよ。書類の文書って直そうと思うときりがないんだけど。期日のギリギリまで試行錯誤して、最良のものを出したい。十文字は、それができると思うけど」


 十文字は首を横に振る。


「そうでしょうか。おれはいつも逃げて。楽な道を選んでここまで来ているんです」


「楽な道?」


「そうですよ。いつもそうなんだ。受験の時は、必ずワンランク下げて。がむしゃらに勉強なんてしません。就職だって、安定しているから公務員にしたんだ。公務員なんて、滅多に首にならないって聞いたし。就業時間、そこに座っているだけでも給料もらえるって聞きましたから」


 田口は笑ってしまった。


「それは嘘だな。公務員なってブラック企業と一緒だ」


「本当ですよ。残業ばっかりだし。市民からは怒られてばっかりだし。もうね。騙された感、半端ないです」


「でも辞めないのだろう?」


 田口は十文字を見つめる。この男は——。


「お前はそんな自分のことをよく理解している。それなら——変われる」


「変わる?」


「そうだ。お前なら。変われる。きっと——いい市役所職員になれる」


 先輩面して。ふとそんな思いに駆られて、田口は首を横に振った。


「すまない。仕事の話をしなくちゃいけないのに。余計な話をしてしまったようだね」


 十文字はぼんやりとしていた。立ち入ったことを言ってしまったようだ。田口は報告書を取り出して話を戻そうとした。しかし。十文字は首を横に振った。


「おれ。昔から『頑張る』ってかっこ悪いなって思っていて。いいえ。頑張ったって無駄だったんです。兄がいるんですよ。とっても優秀で。国の役人してます。兄は人間的にもできた奴で。ずっと劣等感を抱いていました。頑張ったって兄には遠く及ばないんです。だったら、頑張ったって仕方がないって思ったんです。だから、いつも楽な道を選んだ」


「おれはお前のお兄さんを見たことはないけれど。おれよりも優秀な後輩が入ってきたって思ったぞ」


「田口さんはね。本当にいい人過ぎるんですよ。——だから。係長もきっと気に入っているんでしょうね」


 田口はどっきりとした。保住とのことから話を逸らさなければ。慌てて口を開いた。


「だけど。今日、お前はこうして残業して書類のことばっかり考えている。それって、『頑張っている』に入らないか?」


 十文字は目を見開いてから、笑みを見せた。


「確かに。その通りかも知れないですね」


「お前は変わりはじめているのかも知れないな」


「……変わり始めている……」


 十文字は書類を握ってから田口を見つめる。しばしの間の後、十文字は急に田口の腕を握った。


「田口さん! お忙しいのを重々承知でお願いしていいですか」


「なに?」


「付き合ってください」


「ええ!?」


 田口は顔を赤くして驚く。それを見て十文字は怒った。


「勘違いはなはだしい反応はやめてください!」


「すみません……」


「報告書づくりを教えてください。お知恵を貸してください! って意味です」


「ごめんなさい……」


 急に熱い十文字の反応は受け止めきれないのか、「付き合います。付き合いますから……」とだけ答える田口であった。



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