第11話 宴のあと


 先程までの賑やかさが嘘のようだ。辺りは静寂に包まれている。土曜日の深夜、時間の針は一時を回る。田口は目頭を押さえながら、ハンドルを握っていた。


 地方の都市だ。この時間になると車の往来は減り、小さい道路の信号は点滅に変わる。ブレーキを踏み込む際、振動を抑えようと丁寧にしているつもりだが、道路の状況が悪ければ避けられないものもある。ルームミラーで後部座席を確認すると、腰を押さえながら少しうつ伏せ気味に保住が横になっていた。


「すみません、運転が下手です」


「いや……そう言う問題ではないから気にするな。むしろ、疲れているのにすまない。運転させて」


 保住の声はかすれていて弱弱しい。腰の痛みがひどいのだろう。今日は、ほぼ一日立ち通しだ。


 ——本当に無茶ばかりなんだ。


 復帰して一週間も経過していないのに。こんな夜中まで立ち通し。いくらコルセットをしていても、痛みが再燃するのは無理もない。


 ——明日は無理かもしれない。


 田口の胸には、そんな心配が過っていた。


 レセプション会場を撤収して、一人では帰れない彼を抱えて自分の車に乗せた。本当なら、我が家に連れて行きたいところが、慣れ親しんだ我が家のほうがゆっくりできるだろう。田口は保住の家に泊まる用意をしてきたことを考えて、緊張していた。


 恋人になったとはいえ、互いの家に寝泊まりすることはまずない。保住の状態を見れば、何事かがあるはずもないのに。改まって彼の家に宿泊するということが、嬉しく感じられたのだ。


 保住の住む古びたアパートの前に車を停めてから、後部座席のドアを開ける。


「歩けますか」


 目を瞑っていた保住は「そのくらいはできる」とぶっきらぼうに返答したが、言葉とは裏腹に動こうとはしない。いや、これは。動けないのだろう。田口は苦笑して、手を差し出す。


「手伝いますよ」


「い、いい!」


 たまに保住は子供みたいな反応を示す。恥ずかしいのか、プライドが許さないのか。目元を赤くして怒っている保住。致し方がないと、保住が動き出すのを待つことにする。しかし。やはり彼が起き上がる気配は一向に見られなかった。


「やはり、お手伝いが必要のようですね」


 田口は後部座席に上半身を滑り込ませて、保住の首裏から背中に腕を回した。それからそっと引き寄せる。保住の匂いが鼻を掠める。何だか幸せな気持ちになった。しかし。保住は「悔しいっ!」と怒っている。


「強がりは、あまりいいことになりません」


「うるさい! おれにだってプライドはある。お前なんかに手を借りないとからだも動かせないなんて!」


 痛みと疲れからの八つ当たり。田口はそう理解した。こんな駄々っ子みたいな仕草は田口にしか見せない姿だ。そう考えると、八つ当たりも嬉しい。


「ならやめましょうか?」


「い、いい! このまま部屋まで連れて行け」


「承知しました」


 保住は田口の首に両腕を回して、必死にしがみついてくる。不機嫌そうなくせに。もう笑うしかない。


「全くもって思うようにならん」


「仕方ありませんよ。まだまだ時間がかかるものです」


「くそっ」


 黙り込んだ保住を抱えたままベッドに彼を下ろす。


「ともかく横になりましょう。風呂は明日でも間に合います」


「明日も早いのだぞ?」


「それは出演者たちの場合です。保住さんは明日は本番前に顔を出せばいいのではないですか?」


「そんな事はしたくない。おれも朝から行く」


「無茶言わないでくださいよ」


「うるさい。仕事のことはおれが決める。お前は指図するな」


 言葉では通じないらしい。これは黙らせるしかあるまいと判断した田口は、ワイシャツをたくしあげてからコルセットを外し、その素肌、腰に手を当てる。


 直に触れられて驚いたのだろう。保住はからだを緊張させた刹那、痛みで屈み込んだ。田口の手に驚いてからだが強張り、痛みが増悪したようだ。ベッドの上にかがみ込んだ保住は息も絶え絶えだ。


「……っ、お前なあ……っ」


「ほら。こんな調子では無理は禁物ですよ。もうお休み下さい。痛み止めの座薬、入れて差し上げましょうか」


「田口、楽しんでるだろう?!」


「楽しいですね」


「いつか仕返してやるからな!」


 ——可愛くて、堪らない。


 田口は保住の上にのしかかると、そのまま唇を重ねた。


「——っ」


 彼の腰に手を回してそっとからだを引き寄せる。深く。深く。舌を絡ませ保住を味わう。どちらともつかない唾液が、口角から流れ落ちた。


「んんっ」

 

  保住は田口の肩を叩いてくるが、そんなことは気にもしない。彼を味わうことに夢中になっていた。


 ——保住さんの味は甘い。


 腰に手をあてがっているので痛みはないはずだが。保住は田口のシャツを握った。その感触がまた嬉しい。


 ——澤井さんもこれを味わったのか。


 そう思うと嫉妬心が湧き起こる。それと同時に、今の保住は自分のものだという独占欲。されから支配欲。そして、満たされた思いに包まれていく。


「田口……っ!」


 不意に自分を名を呼ぶ声に唇を離す。保住はこれ以上もなく目元を朱に染めていた。漆黒の瞳は潤み、そして口元が唾液で濡れている。


 ——そそられる。


「いけませんか?」


 田口は自分の中で昂る欲望を必死に抑え込みながら低い声で言った。


「いけないって……」


「終わったら、いくらでもしていいと言われました」


「まだ終わっていないだろ」


「そうですか?」


 保住の頬に鼻先をつける。


「やめろ、今日は汗臭い」


「保住さんって、お日様の匂いがします」


ほこり臭いって言うのか」


「あ、そうか。お日様の匂いってほこりの匂いなんですね」


 失礼な表現だ、と思うが、実際に保住からはそんな匂いがした。


「疲れたのだ。休ませろ」


「そうでしたね。お休みください」


「明日は早く起こせ。おれも行く」


「泊まっていいのですか?」


 保住はベッドの上でため息を吐く。


「一人では何もできない半人前だ。すまないな。疲れているだろうに。もう少しだけ面倒を見てくれ」


 彼からの頼まれごとは無条件で受け入れる。田口は笑みを浮かべて「そのつもりでしたよ」と答えた。


「ちゃんと起こしますから。寝てください」


 田口は苦笑してから、保住に視線を戻す。すると、彼はもうすでに眠りにはいってしまったようだ。軽く寝息を立てている保住。笑うしかない。


「もう、——ですか?」


 田口のそばで、無防備に寝る彼を見ていると幸せな気持ちになった。


 付き合い始めて数ヶ月。まだまだ前に進めてない関係性だが、こうしてそばに彼を感じられるだけで満たされる。


 風呂に入ろうかとか。色々考えていたが、それは明日の朝でもいいだろう。田口も、そっと彼の頭に額をくっつけて目を閉じる。


 ——疲れましたね。保住さん。明日もまた頑張りましょうね。


 どんなに疲れても。そんなものは関係がない。保住さえそばにいてくれれば。自分はきっと。なんでもできる——。



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