第10話 最狂メンバー最後の仕事


 ——そばにいたいのに……。


 それは叶わない願いだというのか。

 田口は菜花を連れて、ホールに入っていく保住の後ろ姿を見つめながら、田口は拳を握り締めた。


 

 年齢はたったの二つしか違わないのに。保住の背中には追いつけない。市長と会話をしている彼も。県担当者と仲良くしている彼も。どれもこれも、田口には手を伸ばしても届かないものばかり。


 ——もどかしい。


 もっと力が欲しい。隣に並ぶことは難しいのかも知れないけど、せめて付き従える力、立場が欲しかった。いつまでも足手纏いではいられない。田口の脳裏には、澤井の言葉が繰り返される。


『一緒にいれば、お前が足かせになる時が来るかも知れない』


 最もなことだ。すでに足枷になりかけてはいないか不安になる。澤井は保住にしがみついていろと言っていたが、その時が来たら、自分はできるのだろうか——? 


 きっと遠慮してしまうのではないか。そうならないためにも、自信を持たなくてはいけないのだ。もっと胸を張れるように。堂々と、「保住さんといたい」と言えるように。


「田口」


 自分の名を呼ぶ声に振り返ると、矢部が「ぼさっとしてんなよ」と腕を引っ張った。まだまだ受付業務は忙しい。レセプションが始まる時間だ。


「すみませんでした」


 田口は頭を下げてから、受付業務に戻った。余計なことは考えないようにしなければ。どんなにこの時を待ち望んだことか。


 渡辺、矢部、谷川。そして保住。文化課振興係の扉を初めて開けた瞬間から二年が経つ。思い返せば色々なことがあった。


 最初は緩い雰囲気に馴染めなくて戸惑った。いい加減な恰好で、適当な保住に対して嫌な気持ちを持ったのだ。


 頼りになるけど、ストレスに弱く、すぐ胃が痛くなる渡辺。


 アニメヲタクで、美少女の話ばかりしている訳の分からない太った矢部。


 骸骨みたいに痩せているのに、女子との絡みには、めっぽう興味があって、それでいて、田口の保住への気持ちもよく理解してくれる、お兄さん的な谷川。


 鬼みたいで、威圧感半端なく、罵声を浴びせてくる澤井。


 ぽっちゃりしていて、ニコニコ温和で優しい佐久間。


 ここで本当にやっていけるのか——? そんなことばかりだったことを思い出す。


 星野一郎の企画の時は、みんなの前で泣いたりわめいたりして、情けない姿を見せてしまった。


 熱中症で死にかけた保住を実家に連れて行ったこともあった。


 雲の上的な存在である上司の澤井と、保住を取り合ったりするという、到底ありえない経験もした。


 オペラの制作で、作曲家である神崎の家政夫のようなこともした。


 それから、今までに出会ったことのない人種の人たちとの出会いもあった。


 保住の笑顔は、田口の人生をまるっきり変えた。よく考えてみたら、保住と出会う前の自分は、生けるしかばねだったのかもしれない。何の目標もなく、ただ時間だけが過ぎ去って行く。楽しいことなどひとつもなかったのに。


 それなのに。今まさに、田口は仕事の楽しさを知り、生きていることがこんなにも素晴らしいことだと理解していた。


 ——失いたくない。一度手に入れたものは。そうやすやすと手放したくないのだ。


 こんな思いは。生まれて初めて。


「皆様、お時間となりました。これより梅沢市制作の歌劇『星の夜空の輝きに』のレセプションを開始いたします」


 依頼していた、プロのアナウンサーの声が響いてきた。


「始まるな」


 受付で一緒にいた谷川が顔を上げた。


「——田口。おれたち、ここまで来られたのは、お前のおかげだ」


 ふと谷川は笑った。それから隣にいた矢部も頷く。


「本当だ。田口が異動できてくれて、良かったよ」


「そんな……」


「多分、今のおれたにできない仕事はないよな」


 渡辺もにっこりと笑みを見せた。しかし、それから表情を曇らせて、矢部を見た。矢部は。明後日から異動する。異動先は水道局。矢部は「やだな、そんな顔しないで。渡辺さん」と笑った。


「田口。おれはひと足先に異動だけど。明後日からも、渡辺さんと谷川と。えっと、それから新しく来る職員と一緒に、係長を支えてやってくれ」


 二千人近くいる職員の中で、また一緒に仕事ができる確約はない。


「もう少しここで、みんなと仕事したかったな」


「矢部さん……」


「変なの。あんま、そう言うの関係ないタイプなんだよ。ヲタクだからさ。好きなアニメでもみてればいい訳。けどさ。ここは居心地もよかったし。こんなおれの性格を受け入れてくれる人がいたからな」


 それは田口にも言えること。


「おれもですよ」


「そっか、そうだよな」


「矢部さん、また飲みましょうよ! 係長を囲む会じゃないですか」 


 谷川の言葉に矢部は、目元をゴシゴシとして笑顔を見せる。


「そうだな! 飲もうぜ」


 市長の話が終わったのか、中からは盛大な拍手が響く。それを横目に渡辺はみんなのを取り合い、それから重ねた。四人は視線を交わした。


「よっし、もう少しだ! 気合い入れようぜ」


「はい」


 涙は似合わない。自分たちは市役所内で最狂メンバーに違いない。オペラ制作をし、それを初演まで漕ぎ着けた。たった五人でだ。この成功は田口たちにしてみれば勲章だ。澤井のためではない。自分たちのため。そして市民のため。


 ここにいることが、どんなに幸せか。そして、自分は。


「おれは上に行く。そして保住さんの隣に立つ」


 そう決心していたのだった。



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