第8話 落ち着けません。
無我夢中だった。ただひたすら、もう保住を誰にも取られたくないと思ったのだ。自分の名を何度も呼ぶ保住の声が遠くから聞こえてきたかと思うと、不意に耳元で大きく響いた。
田口は驚いた。ぼんやりとしていた意識がここに戻ってきた。すると、周囲の様子が理解できた。
ここは楽屋。関口圭一郎のために取ってある楽屋だった。室内は薄暗く、鏡の脇に据え付けられている照明だけが橙色に灯っていた。
「田口!」
再び保住の声が聞こえて視線を落とすと、保住は青白い顔で田口を見上げていた。その瞳はまるで、カラスの羽のように漆黒に濡れている。
「おれを見ろ。大丈夫だ。大丈夫。おれはここにいる」
保住の細い指が、頬に触れたかと思うと、田口の顔を包み込むように撫でた。田口は心を鎮めようと呼吸に意識を向けた。
「保住さん……。すみませんでした」
「田口。すまない。おれが悪い」
保住の手は、そこまま田口の首に回る。そして、そっと引き寄せられた。保住に近くなると、保住の匂いがする。自分は、保住を壁に押し付けていたようだ。かがみ込んで、壁に背を預けている保住の首元に顔を埋める。保住はそれに応えるように更に田口を引き寄せた。
「お前を不安にさせている。おれが悪い」
「いいえ。違います。職務中だというのに。冷静に対応できないおれが悪いんだ。おれだって、貴方になかなか触れられないのに。他の人が触れるのは許しがたいのです」
保住は田口の耳元で囁く。
「なら、触れればいい。お前に触れられるのは嫌ではない。逆に、おれは嫌われているのかと思った。お前に避けられているのかと」
「痛みもあるのに。負担をかけたくありません」
「構わない、お前が遠慮するほど、おれはお前の気持ちを疑う」
保住を不安にさせていたのは自分だ。そして、自分自身も不安だった。彼の本意を聞くことができて、嬉しい気持ちになる。
「保住さん……っ」
田口はそっと保住の唇に自分の唇を寄せた。彼はそれに応えるように、軽く唇を開いた。遠慮がちに始まったキスだが、保住の熱を感じると、その気持ちは止まることはない。
舌を差し入れて、彼の口内をくまなく味わう。鼻から抜けるような甘い吐息に興奮した。角度を変え、息を継ぎながら保住を求める。
首に回った保住の腕に力が入るのがわかると、気持ちが昂っていった。壁についていた手を、保住の腰に回す。シャツを捲り上げ、その素肌に触れようとしたその時。保住に肩を叩かれた。
「た、……っ、田口!」
「はい!」
田口は驚いて唇を離す。保住は目元を真っ赤にして、潤んだ瞳で田口を見上げていた。
「触れてもいいが、今は仕事中だ……っ」
「すみません、そうでした。つい……」
やってしまった。罪悪感。保住にやっと触れられて、あまりの嬉しさに我を失っていたのだ。反省しても仕切れない。田口は「すみません」ともう一度謝罪した。すると、保住は「ふっ」と吹き出した。彼は声をあげて笑い声を立てる。
「笑わないでくださいよ。保住さん」
「だって。お前、粗相した犬みたいだな」
「粗相、したじゃないですか」
保住は両手で田口の頬をパチンと軽く叩いた。
「終わったら、いくらでもしてやる」
「本当ですか?!」
「加減してくれ。おれは病人だ」
「そうでした……でも、わかりました! 頑張ります」
田口の返答に保住は笑を見せた。田口の大好きな八重歯が見えた。彼の額には軽く汗が滲む。田口はそっと彼の額に当てて体温を確認した。
「保住さん。熱ありませんか? 温かいです」
「もう少しの辛抱だ。これが終わったらきちんと療養するから。黙っておけよ」
保住は田口の口に指を当てる。これ以上は言うなと言うことだ。
「頼む。おれの好きにやらせてくれ」
「わかりましたが、あの——」
田口は言いにくそうに呟く。
「なんだ」
「おれのそばにいてください。なにかあったらすぐに止めさせます」
「わかった」
大仕事は、これから始まるのだ。オペラの公演は明日に迫る。今日はこれから、ゲネプロがあり、夜はレセプション。本番は明日だ。保住との密会に酔いしれている場合ではない。ずっとみんなで頑張ってきたものの集大成だ。気を引き締めよう。
先に楽屋を出て行く保住の後ろ姿を見つめながら、田口は自分によく言い聞かせた。
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