第5話 舞い戻る


「やっと出てきたのか」


 オペラの上演が一週間後に控えたその日。保住は教育委員会事務局長室に顔を出した。澤井はちらりと視線を寄越した後、老眼鏡を外してからため息を吐いた。


「顔色が悪すぎるぞ。そんなんで一日持つのか」


 コルセットをしてはいても、三週間も寝込んでいた影響で、からだを支える体力も筋力も随分と落ちたようだ。こうして立っているだけで、疲れを覚える。横になりたいと思ってしまうのだった。


「なんとかします」


「痛み止めは?」


「一日三回服用しています」


「……お前の空けた穴は、田口が塞いでいた。お前がいなくて滞っていることも多いが、できないわけではない」


「まだ休んでおけ」と言わんばかりの澤井。彼に促されて、ソファに腰を下ろした保住も流石に不安しかない。


 しかし今回ばかりは、自分の不注意が招いたことだ。みんなに迷惑をかけていることは重々承知。これ以上、迷惑はかけられないのだ。


「お前の父親もそうだったな。この仕事、休みがちだと寝首をかかれるぞ」


「申し訳ありません」


 じんと重い痛みは、受傷したばかりの痛みとはまた違う。こうしてじっとしていてもじわじわとダメージを与えてくる。


「動き始めれば、なんとかなるかと考えています」


「甘い観測ではないか。お前らしくもない」


「そうでしょうか? そうでもしないと、いまでも戻れないです。復帰させてください。足手纏いにはなるつもりはありません」


「痛みがある奴になにができる」


 澤井は保住の目の前に来て、彼の顎に手を当て上を向かせる。背中が自然と反る形になると、チクリと痛みが走り顔をしかめた。


「ほらみろ。これだけでも痛むのだろうが」


「そんな物は想定内です」


 そう言って立ち上がろうとするものの、ソファは座面の高さが低い。痛みが走って思わずそばに手をついた。澤井は「強がってもいいことはないぞ」と苦笑した。それから、保住の手を引いて立ち上がり動作の手助けをしてくれた。


「強がりはむしろ周囲に迷惑をかけるものだ。一日キツイなら勤務時間を短縮しろ。肝心なところだけ顔を出せばいいい。後はメールで何とかなるものだ」


「ありがとうございます」


 立ち上がってしまえば手を借りることはないが、澤井は手を離す気がない。保住は顔を上げると、澤井は心配そうにこちらを見ていた。


「すまなかったな。無理をさせたのだろう。このオペラの企画は強行スケジュールだったからな」


「澤井さん……」


 保住は首を横に振る。


「あなたの教育委員会事務局長の最後の花道ですからね。出来ることは致します。悪態ばかりで素直ではない部下だったかもしれませんが、あなたには色々な事を教えてもらいました。感謝しています」


「そんな風に思ってくれているのか」


 澤井は苦笑した。


「素直でないのは、あなたも一緒ですからね」


「そうだな」


 澤井の腕が腰に回ってきたかと思うと、一気に引き寄せられた。腰を支えられたおかげで、痛みが和らぐ。


「仕事中ですが」


「田口にこうしてもらっていろ。楽なはずだ」


 澤井との距離が近い。なんだか気恥ずかしくて、保住は視線を逸らした。


「田口とのことに口を挟まれたくありません。勘弁してくださいよ」


「たまには触らせろ」


「嫌です」


 そっと床に降ろされて、保住は頭を軽く下げる。屈む姿勢が一番辛いのだ。


「失礼します」


「帰るときは帰れ。休めるときは休めよ」


「ありがとうございます」


 保住は軽く頭を下げてから事務局長室をあとにした。


 事務室に戻ると、みんなが心配をした顔をしていた。渡辺は「係長」と声を低くした。


「局長からはなんて? 仕事、再開できそうですか」


 保住は痛みを押し殺し、笑みを見せる。


「ええ。問題ありませんよ。今まで穴を開けた分、仕事をしろとドヤされました」


「よかった! オペラ上演には全員集合ですね」


 谷川は両手を打ち鳴らす。矢部も「よかった、よかった」と喜んでいた。しかし。田口だけは違う。彼は眉間に皺を寄せて保住を見ていた。


 自分の体調が優れないことを、澤井がそんなことを言わないことを。全てを見透かしているのだろう。しかし。保住はその視線を無視して、自席に座る。


 腰を下ろしただけでビリビリと痛みが襲うが、構うものか、と思った。


「さあ、始めましょうか! ラスト一週間。忙しくなりますよ」


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