第4話 口付け



 三月。オーケストラの練習を見て、田口は梅沢に帰還した。


 音楽のことはわからない田口だが、何度も聴いているうちに纏まってきているのがよくわかった。


 いつもは夕飯を付き合わされることが多く、最終の新幹線に乗るのがやっとだが、今日は圭一郎の予定の関係で、ランチに付き合って早めに帰宅することができた。一人で上京するのは心細かったが、それも随分と慣れた。


 早めの帰りとはいえ、梅沢に着くのは定時を過ぎる。佐久間から「そのまま直帰しなさい」と指示をもらったので、田口は空き時間にお土産を買った。だって、今日は……。


 六時過ぎ。梅沢駅から自家用車に乗り込み、自宅とは違う場所を目指す。駐車場の空きスペースに車を入れてから、チャイムを鳴らすと、みのりが顔を出した。


「あら、こんばんは。田口さん」


「こんばんは。何度もお邪魔して、すみません」


「いいえ。思うようでないから、不機嫌なんですよ。暴れています。田口さん来てくれると、機嫌良くなるから、助かります」


 みのりはそう言って、田口を中に招いてくれた。ここは保住の実家だ。アパートで一人でいられる状況ではなかったので、実家で療養しているのだ。


 恋人の実家に顔を出すと言う行為は、なかなかスリリングであるが。保住の母親も、みのりも、まさか二人が付き合っているなど思ってもいないだろう。


 靴を脱いで上がり込むと、母親が顔を出した。


「いらっしゃい。夕飯食べていくでしょう? 田口くん」


「しかし」


「いいじゃないの」


「そうよ。だって、今日は……」


 ——保住の誕生日。


「起こしてくる?」


 みのりは田口を見上げた。


「あの。おれが行ってみます」


 田口は買ってきたケーキの箱をみのりに預けてから、一階奥の部屋に足を向ける。何度も足を運んでいるしので、もう勝手知ったると言うところだ。


 この部屋は保住のなくなった父親の部屋だそうだ。彼が療養していたベッドがそのままになっていたため、ちょうどいいとあてがわれた、と保住が言っていたのを思い出す。


「保住さん。——田口です」


 ドアをノックするが、返事がない。そっと開けてみると、彼はすっかり眠り込んでいた。


 相変わらず痛みが取れないようだ。コルセットも出来て、少しは動けるようだが、根本は解決していない。


 痛みが邪魔をして、まとまって寝ることができないと言っていた。そばに寄っても田口には気が付かないのか、横向きになり軽い寝息を立てている保住の額に手を当てた。


「田口……?」


 目も開けずに、彼は呟く。


「すみません。おれです。勝手に触れました」


「許可などいらないだろう?」


 軽く汗ばむ額。


「熱がありそうですね」


「ずっと微熱が出ているようだ」


 目を開けて、保住は田口を見る。彼の瞳には光がなかった。くすんだ瞳は熱に浮かされて濡れている。


「せっかくのお誕生日なのに」


「誕生日なんて嬉しいものでもない。それより、オケはどうだった?」


「仕事の話ですか? やめましょうよ。今日は」


「おれが聞きたいのだ」


「そうですか」


 田口は床に座り込み、保住の顔を覗く。


「音楽のことがよくわからないので、いいも悪いもありませんが、音楽としてでき上がっていました。有田さんもいい感じのペースではないかと言っていました」


「そうか」


 保住はほっとしたように目を閉じる。仕事、仕事——。気になって仕方がないのだろうな。そんなことを考えていると、ふと保住が目を開ける。


「お前はどうだ」


「え?」


「澤井に嫌なことされていないだろうか。体調は大丈夫か? おれの代わりに東京出張ばかりで疲れるだろう。すまないな」


 急に自分のことに話が及び、最初は狐につままれた気がしたが、しだいに彼の気持ちが伝わって来る。田口は嬉しく思った。


「すみません。気にかけてくれるんですね」


「いや。……お前には迷惑をかけ通しだ。まったく恩を返せていないのに。すまないことばかりが溜まっていく」


「保住さん」


 田口はそっと保住の顔を覗き込んだ。


「では一つだけ。お願いを聞いてもらえませんか?」


「なんだ?」


「キスさせてください」


 我慢出来ない。こんなところで。そうは思っても、無理だった。軽く熱に浮かされている彼の視線に吸い込まれそうなのだ。


「田口……」


 否定なのか、肯定なのか。自分の名前を呼ぶために開かれた唇に、自分の唇を重ねる。軽く。そうは思うけど、一度触れてしまうと止めたくはない。触れては離れての軽いキスだが、田口の気持ちを高揚させるには十分過ぎるものだ。


「……っ」


「保住さん……」


 そう囁いた時。


「痛っ……! た、田口、ちょっと、待って……っ!」


「すみません!」


 からだのちょっとした傾きで、保住は唸る。


「つい。調子に乗りました」


 田口は、狼狽えて保住を見つめた。


「いや、……っすまない。本当に、すまない……」


 腰を抑え痛みを堪える保住は、本当に可哀想になってしまう。


「ちょっと、大丈夫?」


 そんな騒ぎを聞きつけたのか。みのりが顔を出した。


「すみません」


 田口はオロオロするばかりだ。


「もう! 寝ている時もコルセットしてろって言ってるのに」 


 みのりは豪快だ。バシバシと保住を叩く。声にならない痛みとは、こう言う事か。


「……ツッ」


「みのりさん、」


「田口さんは甘いよ、甘い。日頃の仕返ししといたほうがいいわよ。ほらほら、寝てないで。田口さんがケーキ買ってきてくれたんだから。起きてきなよ」


 彼女はあっけらかんとそう言うと、部屋を出て行く。田口はぽかんとしていた。


「みのりの奴……元気になったら仕返ししてやる……」


「兄弟喧嘩ですね」


「笑うところか。田口」


「すみません」


「全く最悪だ! この骨折っ!」


 八つ当たりのつもりなのだろうが、気合いだとばかりに身体を起こした保住は、そのまま固まる。


「っっ……っ!」


「無理してはいけません。コルセット巻きましょう」


 保住は息も絶え絶えだ。保住にとったら、本当に最悪の誕生日になったことだろう。



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