第2話 おお、神よ!
オペラは全曲通すと二時間ほどの超大作だ。それの譜面読みとなると、かなり膨大な時間を要することは、素人の田口でも理解できた。
「今日の練習は何時まで予定されているのですか」
佐久間の問いに、有田は平然と答える。
「今日は夜の11時まで会場を押さえてあります」
「そんなに?」
「体育会系ばりですね」
田口の感想に有田は笑った。
「音楽家って、インドアなイメージかもしれませんが、体力勝負なんですよ。マエストロも、オフの日は半日、筋トレやジョギングをしてからだ作りをしています。指揮者とは、常人が使わない筋肉を酷使しますから。楽器奏者も同様ですね。途中で、疲れたからと言って、ポジションが崩れれば、音も崩れますから。常に、いい状態で楽器を支えたり、演奏をしなければなりません」
「なかなかスタミナが要求されるものですね」
田口は感嘆の声を上げる。知らなかった。学生時代、合唱や吹奏楽をやっている友人を見てきたが、文化系部活のくくりで見ていたから。そんなに体力が必要だとは思っても見なかったのだ。
確かに。このオペラ。二時間の超大作を支えるのだ。これはなかなか過酷な作業だ。
「田口さんはスポーツ系ですか」
ふと有田と視線がぶつかった。田口の身長で、こうして上げ下げすることなく視線を交わせるのは楽だと思った。
「おれは剣道部でした。なので音楽のことはこれっぽっちわからないんです」
有田は口元を緩めた。
「実は私も。音楽とは全く無縁でして。初めて音楽の世界に足を踏み入れた時は同じ気持ちでした。なので、つい。失礼致しました」
「いえ。有田さんは、どうしてマエストロの秘書に?」
自分と同じ。音楽に縁のなかった彼が、今まさに、世界を飛び回る指揮者のマネジャーをしているのだ。興味がわかずにはいられない。
「それは、まあ。色々あったのですが。……元々文学少年でした。雑誌編集に憧れて入社した先で、マエストロの密着取材を任された時がありまして」
「マエストロに惚れ込んだのですか?」
「逆です。取材の最後に言われました。『君は編集者には向かないねえ。これか苦労することは目に見えているから。僕が引き取ってあげよう』と」
田口と佐久間は顔を見合わせた。そんな話があるものだろうか。有田は笑みを見せる。
「みなさん、同じ反応ですよ。マエストロのお人柄は、このエピソードをで全てを語ることができます。破天荒で、社会のルールには乗れないお方です。驚かないでくださいね。悪気はないのですが、少々純粋で世間知らずがありまして……」
自分よりも大分年上の男だが。そんな人種がいるものか。田口はステージ上の関口圭一郎を見つめた。
「そんなマエストロに振り回され、巻き込まれてここまで来ました」
「ご苦労なことですね」
佐久間のねぎらいの言葉に有田は首を横に振った。
「私は人として関口圭一郎という人間に惚れ込んでいるのだと思います。それだけ、彼には人を魅了する力があります。……ああ、トンチンカンなことを口走ることもありますが、個性だと思ってお許しくださいね。先日も事務局長さん相手に酒盛りを始めてしまって。保住さんにもご迷惑をおかけいたしました」
田口はそこで、澤井と保住が東京出張に行ったことを思い出した。田口は黙り込んでステージを見つめ続ける。すると、関口圭一郎が指揮棒を置いた。休憩の合図らしい。客席一列目にいた女性スタッフが英語で『休憩します』と言った。
団員たちは休憩に入る。楽器を置いて行く者もいれば、持ったままホールから出ていく者もいる。圭一郎も伸びをすると、ステージから降りてきた。
「行きましょう」
有田に促されて、二人はステージ下まで歩いて行った。
「有田、お腹空いた」
「そんな事より」
「そんな事ではない! 最優先事項だ!」
圭一郎は怒っている様子だったが、有田は涼しい顔で田口たちを紹介してくれた。
「マエストロ、梅沢市役所のお二人がお見えです」
関口圭一郎と言う男は優しい目をした初老の男だった。短く刈ってある髪は白髪が混じっている。銀縁の楕円の眼鏡。痩せていているせいなのか、スリムな顎のラインが彼の顔を小さく見せる。
「梅沢……」
圭一郎は二人を交互に見て、急に大きな声を出す。
「なんと!」
「あの子はどうした!? 楽しみにしていたのに! おお! なんたる事だ! 神は試練を与えるのか!!」
関口圭一郎は顔を両手で覆って嘆いた。田口は佐久間を見る。彼もぽかんと口を開けていた。有田だけは
「マエストロ、保住係長さんは体調を崩されたそうです」
「体調だと!? 大丈夫なのか?」
関口圭一郎は飛び跳ねると、すぐさま佐久間の元に駆け寄って腕を掴んだ。
「体調が悪いって……! えっと、なんだっけ?」
「佐久間です」
「そうだ、——佐久間くん!」
困っている佐久間は、助けを求めるように田口を見た。田口は慌てて説明を加えた。
「雪道で転倒したのです。その時に腰を圧迫骨折してしまいまして。今回はすみません。我々で対応させていただきます」
圭一郎は今度は、田口のところに駆け寄った。
「本番は間に合うのか? 有田! 次の練習は梅沢でやるぞ!」
「ご冗談を。無茶なことを言わないでください」
「なんたる事だ……!」
彼はよほど保住と会うのを楽しみにしていたのか。田口は内心面白くない反面、ここまで大袈裟なリアクションを見せられると唖然とするしかない。そして、途中からおかしくて笑いそうになった。
「本番の頃には、復帰いたしますから。ご容赦ください」
「そうか、もう会えないのでは残念だが……。お預けなら我慢しよう」
圭一郎は田口を見る。長身で大柄な田口と、同じ高さの目線の人間は珍しいのだ。有田に引き続き、田口は嬉しい気持ちになった。
「キミは?」
「田口です。保住の代わりで参りました。なんなりとお申し付けください」
真っ直ぐに目を覗き込まれると恥ずかしい。日本人離れしている圭一郎にはそんな小さいことは関係がないようで、彼はまじまじと田口の瞳を覗き込んでいた。しかし突然、「気に入った!」と叫んだ。それから、田口の肩を引き寄せてぎゅっと抱きしめてきた。
「君は日本人らしくていい! 気に入った!」
「あ、ありがとうございます……」
人に抱き寄せられるのは慣れていない。隣にいた佐久間は「自分ではなくて良かった」と言う顔をしていた。
関口圭一郎という男は、かなり破天荒で理解しがたい人物だった。
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