第5話 圧迫骨折

 

 二人の時間は、忙しさに追われて、ただただ過ぎていった。二月末、オペラ上演まで一か月に迫ったある朝。事件は起きた。


 今年は、ともかく雪が多かった。車道の雪は除雪のおかげで、すぐに落ち着くが、歩道はそうはいかない。踏み固められ、溶けては凍りを繰り返した路面はアイスバーン化する。


 田口のように徒歩通勤の者は神経をすり減らしていた。革靴では、到底太刀打ちができない。職場に革靴をおき、通勤には長靴を履いた。


 最近、バードウォッチング用の長靴を見つけたのだ。今まではブーツを履いていたのだが、柔らかい素材で折りたためる仕様だ。そのおかげで、足首が固定されない分、自由が効いた。更に、折りたためば、専用の袋に収納できるから重宝する。


「保住さんにも買ってあげようかな……。あの人。絶対、この道は転ぶよな」


 庁舎周囲の歩道を見て、田口は苦笑した。施設部の職員たちが、早出をして駐車場の雪かきをしている。経費などないのだ。雪かきも人力。この時期、施設部の職員たちは大変だ。彼らだけに任せるのも忍びないと、他の部署から若手が自発的に雪かきに参加する。


 本来なら田口も混ざりたいところだが、今は本業が忙しいのだ。申し訳ない気持ちのまま、横を通り過ぎて事務所に上がる。


 先に来て事務所を温め、それからポットの準備をする。そうこうしているうちに、始業前だというのに、みんなが出勤してきた。


 雪道は混み合うから、いつも以上に早く出てくる人が多いのだ。


「今朝は昨日よりも早めに出たのに。結局は一時間もかかったよ……まじめに勘弁してほしい。あー、早く春来てー」


 矢部は大きな欠伸をする。


「いつもの倍以上かかるよな。なぜか混むんだよな。絶対、学生だよ。送り迎えしてもらってんだ。今時の学生めっ」


 怒っている矢部に、渡辺が泣きついた。


「うう……うちの娘がそのだよっ! こういう時ばっかり『お父さん〜』なんて猫なで声だもんな……」


「で、そんな娘に負けて送迎する馬鹿な親が渡辺さんですね?」


 矢部のコメントに渡辺は笑うしかない。「そうそう」とか言いながら、渡辺が肩に手を当てて首を横にすると、事務所の扉が開いた。


 まだ到着していないのは保住だけだ。一同は「おはようございます」と声を上げた。しかし。その扉は、静かにゆっくりと開く。いつもの颯爽とした彼ではない。田口は「係長?」と駆け寄った。


 そこにはドアノブに手をかけ、屈みこんでいる保住がいたのだ。


「どうされたのですか?!」


 田口は慌ててしゃがみ込んだ。保住は青白い顔をしていた。額には冷や汗が浮かぶ。田口の後ろから他の職員たちも駆けつけた。


「凍傷ですか?!」


「足痛いの?」


「転びました……」と保住は言った。四人は困惑して顔を見合わせた。


「こ、転んだって……。駐車場からの途中ですか?」


 保住は小さく頷く。矢部は「やだな」と笑うが、田口は心配で堪らない。保住の額には冷や汗が滲んでいたからだ。かなり痛そうだ。


「痛みますね? 腰ですか?」


「そうだ。……笑い事じゃないくらい、痛い……」


「嘘でしょ……」


 矢部はサッと顔色を悪くする。渡辺は「病院、病院だ!」と慌て始める。


「おれ、連れて行きます」


 田口が、そう言って立ち上がった時。澤井が出勤してきた。


「なにを騒いでいる」


 澤井は屈みこんでいる保住を見つける。


「またお前か。今度はなんだ」


「転んだそうです。もしかしたら、ヒビが入っているのかもしれません。痛みが尋常ではなさそうです」


 田口が答える。澤井は面白くなさそうに鼻を鳴らした。


「この忙しい時に。厄介なことを持ち込むな」


「——すみませんね」


 保住は強がりも見せることができないようだ。眉間に皺を寄せて顔を顰めた。


「おれ、連れて行きます」


 田口は澤井を見る。脱水事件の時みたいに、彼に持っていかれたくないからだ。澤井はじっと田口を見てから、軽くため息を吐いた。


「わかった。行ってこい」


「ありがとうございます!」


「それと、」


「はい」


「こいつの受診が終わったら田口、おれのところに来い」


 ——なぜだ?


 しかし、そんなことにかまけてはいられない。保住は渡辺たちに支えられながら、なんとか自分の席に腰を下ろす。


「……っ」


「痛みますね。係長」


 心配げに声をかける渡辺たちを手で制する。声を発するのも辛いようだ。田口は保住の自家用車のキーを預かり、外に出る。まさか公用車は使えない。この近辺には歩いていける整形外科病院はないから、保住の自家用車に乗せて受診をさせることになった。


 保住の車は、水色の小さい普通車だった。まるで若い女の子が乗りそうなポップな内装に思わず笑みが溢れる。


 こだわりがないというか、どうでもいいのだろうな。そんなことを思いつつ、ルームミラーで後部座席の保住を見つめた。


「可愛い車ですね。相変わらず。みのりさんのお下がりでしたっけ? いいんですか。これで」


「走ればなんでもいいだろう? 一々言うなよ……。っ! いたた」


「打撲では治らないでしょうね。保住さんは筋肉ないから。打ち付けたら骨にきますよ。だから日頃から鍛えるようにと言っているでしょう?」


「結果論だ……」


 偉そうにしていても、最後の方は声が消え掛かっている。保住はうつ伏せになり、腰に手を当てていた。澤井から指示された整形外科に到着した。澤井が電話を入れていてくれたらしい。初診だというのに、思った以上にに早く診てもらえそうだった。



***



「圧迫骨折?!」


 事務所に戻ったのは昼過ぎだった。自宅に送ると言っても、保住は「痛み止めを飲んでおけば平気だ」と言い張った。


 鎮痛剤を山のように出してもらい気力だけで戻ってきたのはいいものの、結局は痛みに耐え切れず、机に突っ伏すしかない。


 留守番をしていた三人は、田口の説明を聞きながら、痛みで動けない保住を見て呆気に取られている様子だった。


「腰部の圧迫骨折でしたよ。先生は自宅安静を指示していたのですが。どうしてもというので……」


「すぐに良くなるものなのか?」


「圧迫骨折って。うちのばあちゃんがなったから、年寄りの病気かと思った」


「先生にも笑われましたよね。係長。痩せすぎだそうです」


 保住は恨めしそうに田口を見る。ただ言葉も出ないくらい辛いようだ。


「コルセットができるのに数日かかるので、それまでの間の辛抱ですよ。きっと今よりは楽になりますよ」


「痛い……」


「係長って、本当に話題に事欠きませんね」


 みんなが心配そうにしている中、田口は澤井のところに向かう。保住は帰さないといけないだろうし、呼ばれていた内容も気になったからだ。


「田口です」


 声をかけると、澤井の声が聞こえてくる。


「入れ」


 澤井は詰まらなそうな顔で田口を見ていた。


「——で」


「はい。圧迫骨折でした」


 病名を告げると、澤井はため息だ。


「全く手がかかる。早く帰らせろ。安静にしないとダメじゃないか」


「はい。医師からは一カ月は自宅で安静にと言われましたが」


「言う事きくわけがないな」


「その通りです。せめて二週間は自宅で安静。コルセットをして、無理をしない約束なら復帰もいいかもしれないが。それも、再受診をして、許可するかどうかを決める、と言われました」


「だろうな。この忙しい時に。あいつは昔からそうだ。肝心な時になにかしでかす」


 面倒そうな言い方だが、表情は固い。


 ——ああ、そうか。心配しているのだ。そうか。局長はやはり、保住さんが大事。


「ともかく。二週間は、自宅安静にするしかあるまい」


「はい」


 澤井はまた軽くため息を吐いてから田口に書類を一枚差し出した。


「明日から、関口圭一郎とオーケストラが来日する」


 書類の中身は、オーケストラの練習日程と場所が書かれている。


「本来は保住に行かせる予定だったが。あいつが使い物にならないのなら、お前行ってこい」


「おれ、ですか?」


「白丸が付いているところは、佐久間と一緒だ」


 東京への出張が一カ月で五回の予定になっている。


「わかったか」


「承知しました。しかし……」


「お前は嫌いだが、少なくとも他の奴らよりは任せられる」


「すみません」


 ——嫌いか。


 田口は素直ではない澤井の態度に笑ってしまった。




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