第15章 狐疑
第1話 手をつなぎたい
「田口! 報告書」
保住の声に、はったとした田口はキーボードを叩く手を速めた。
「すみません、今直し中で……」
そう切り返さない内に、再び保住の声が聞えてくる。
「遅い! 10分だけ待ってやる」
「承知しました!」
オペラの公演が三か月後に迫っている12月。季節は冬だ。今年は雪が多い。事務所内に入ってしまえば、なんてことはないが、一歩でも外に出れば、まるで極寒の地。朝は早くから出勤し、駐車場の雪かき。夜は深夜までオペラの準備。文化課振興係には休む暇もなかった。
田口が保住に告白をしてから、二ヵ月が経とうとしていた。しかし——。二人の関係性は一歩たりとも進展がない。この忙しさだ。プライベートの甘い時間——などというものを一分一秒だって取る暇もない。
疲れ切ったからだを押して、夕飯でも一緒に食べてそれぞれの家に帰宅をする。そんなことが関の山であった。
——まずは。オペラを成功させないと。
田口は必死に書類を作り直していた。隣で渡辺たちがこそこそと話をしている。
「最近、係長が
渡辺のコメントに「田口は、なんだか可愛がられるというより、尻に敷かれてる情けない旦那様って感じだよな」と矢部が笑った。二人の会話に気を取られている場合ではないのだが。田口は「え? なんですか?」と聞き返す。すると今度は谷川が「いいから。頑張れ」と田口の肩を叩く。
神崎の事件の頃と比べると、職場の雰囲気はいい。ただ忙しいだけだ。田口は「すみません」と頭を下げると、書類をプリントアウトした。
「できました!」
慌てて保住の元に駆け寄る。彼は別の書類に夢中だったが、右手を差し出す。「寄越せ」ということだ。彼の手に書類を乗せると、その手はすぐに引っ込められた。それを確認して、田口はほっとした。やっと一息吐いた。そんな感じだ。
胸をなでおろしながら、自席に戻ると、谷川がにやにやしながら自分を見ている。
「なんですか」
「お前、ドМだろう?」
「え? どういう意味ですか」
「いやいや。スパルタも愛の延長線。お前は虐められて悦びを得るタイプだなって思っただけだ」
「な、なにを……」
彼の言っている意味を理解し、耳まで熱くなった瞬間。今度は「谷川さん」と保住の声がかかった。
「今度はおれか。——はい! 係長」
谷川は苦笑してから保住の元に立った。渡辺や矢部だって、無駄口を叩いている場合ではないのだが。あまりにも黙って仕事ばかりしていると、心が疲弊する。こうして無駄話でもしながらではなないと、やっていられない。そういうところなのだろう。
先日。クリスマスなるものがあった。世の中のカップルには一大イベントとなるはずのそれ。しかし——。二人のクリスマスは仕事だった。職場で深夜までパソコンと睨めっこ。帰宅する頃にはくたくたで、それぞれの家に帰って終了だ。
——うう。どうしたらいいものか。
年末が近い。すでに正月休みに入っている職員も多い中、文化課の事務所は静かさそのもの。ところが。振興係だけは、まるで何事もなかったかの如く、騒然としているのだ。これでは年末年始もあったものではない。
——普通は初詣に行くものだぞ。それとも保住さんは実家に帰ってしまうのだろうか。
田口はひと段落したのをいいことに、保住の様子を盗み見る。谷川との話が終わり、次に呼び出されていたのは矢部だ。彼は矢部の企画書の手直しをしているようだった。おちゃらけている矢部をうまく仕事の話に戻しながら、丁寧に直していく。
保住という男は、どんな場面でも手抜きをしない。部下である自分たちも、その姿勢が染みついているから。妥協は許されない。
前の部署の上司は、適当な人だった。気に食わない部下には、無理難題を押し付け、そして、意味もなく叱責した。みんなが彼に気に入られようと、彼のご機嫌を伺っていたのだ。
一体なんのために仕事をしているのか見失いそうになっていた。しかし——。保住は違う。好きとか嫌いとかではない。いいものは「いい」と褒めてくれるし、ダメなものは「ダメ」と言う。そのダメの理由も添えてだ。
だからここにいる誰もが彼の言葉に耳を傾け、そして素直に受け取る。少しでもいいものにしようと上を目指すのだ。
——尊敬すべき上司。
けれど——。
——もう少し恋人としても前に進みたいんだけど……。
互いの思いを伝えあい、二人の関係は今まで以上に進むであろう。そう思っていたのは、甘い考えだったようだ。田口は恋愛については奥手。保住もまた、不器用である。二人の関係はなにも進展はしない。
「難しいものだな……」
「なにが?」
ふと心の声が外に漏れていたらしい。谷川が振り向いたので、田口は慌てて首を横に振った。
***
「正月は実家か?」
退勤の為にIDをかざした保住は、田口に視線を寄越した。保住は妙に疲れているようだ。そもそもが痩せていて体力もない男だ。彼のその痩身のどこに、こんなにハードな仕事をこなすだけの体力がるのか。不思議だ。
からだが出来ている田口ですら、ここのところの激務で、疲労は極限に達しているのだ。田口は心配な気持ちを押し隠しながら、努めて冷静に答える。
「帰るのは諦めました」
「なぜだ。夏に帰ったきりだろう?」
「今の仕事の調子だと、そう休みが取れなそうですしね。うちの実家は豪雪地ですから。一泊二日とかのレベルなら、帰らない方がいいくらいなんです」
保住は申し訳なさそうに顔をしかめた。
「そうか。雪の時期に足を運んだことはないからな。地元民がそう言うならそうなのだろう。——すまないな。忙しくさせているのは重々承知だ」
「いいえ。仕事ですから。オペラの成功は、おれも心から願っているところです。いくら忙しくても構いません。妥協はしたくないです」
田口の答えに、保住は笑みを見せる。
「お前は。嬉しいことを言ってくれるものだな」
「そうですか。本心です」
そう言って返すと、保住は表情を変える。なにか言いたいことでもあるのだろうか。田口は「保住さん?」と名を呼んだ。彼が何事かを言いよどむのは珍しいことだ。
「なにかあったのですか」
保住は少々、何事かを悩んでいたようだが、意を決したのか、田口を見上げてきた。
「もし。もし空いているなら。……付き合わないか」
「え——?」
「毎年。大晦日は保住家が一同に会して年越しをするそうだ。おれは、今まで参加したことなかったのだが。昨日、母親から連絡があった。祖父が、お前を気に入ったようで、二人で来いと言っているようだ」
「え! おれ……ですか? 皆さんの集まりなのに、おれは部外者すぎませんか」
「まあ、部外者と言うか。他人だな」
二人は庁舎の外に出て立ち止まる。冬の夜空は、澄んだ空気のせいで星がキラキラと輝いて見えた。雪が降らない夜は、冷え込みが酷い。こうして立っているだけで、足先まで冷えるような気温だが、暑さや寒さに鈍感な保住は気にならないようだ。
「でも。確かに梅沢での一人年越しですが……」
「祖父が——とは言うが、おれが、来て欲しいのもある」
保住は言いにくそうに視線を逸らした。
「え?!」
「何度も言わせるな。おれ一人にそんな変な場所に行かせる気か? 心配じゃないのか。お前は」
ぷいっと顔を背けて歩き出す。
「心配って。ご親族の方々の集まりじゃないですか。いや。行きます。もちろん!」
田口は慌てて保住の後を追う。
「嫌なら別にいいのだ」
「嫌じゃないです」
保住が自分を頼ってくれることが嬉しい。田口は「嫌じゃないんですよ」ともう一度呟いた。数歩前を歩く保住はなにも言わない。けれど、田口は嬉しい気持ちでいっぱいになった。
そっと腕を伸ばし、保住の手を取る。少し驚いたように顔を上げた保住だが、そのまま田口の手に指を絡ませた。二人は肩を寄せ合い、並んで歩く。ふと保住の頭が田口の肩にかかる。
「我儘ばかりだ。すまない」
「気にしていません。むしろ嬉しいです。なんでも頼ってください」
小学生みたいな保住と、中学生みたいな田口だ。まだまだ手を繋ぐことくらいしか出来ないけど、いいか。田口はそう思うと嬉しい気持ちになった。
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