第5話 貸し一つ
保住は暗い廊下に立っていた。扉の隙間から漏れる明かりを見つめ、ノックしようとした手を止める。しかし——。意を決して扉をノックした。
「入れ」
中からは不機嫌そうな澤井の声が聞こえる。保住はドアノブを回し、中にからだを滑り込ませた。
彼は書類に判を押していた。時計の針は夜の八時を過ぎている。管理職だからと言って、仕事が楽になるわけでもない。それはそばで見ている保住には重々理解できることだ。
澤井という男は、口ほどに性格が悪くもない。雑務は部下に任せ、定時にはさっさと帰っていく管理職が多い中、彼は自分の職務は自分できっちりとこなしている。
——この人は誰も信じていない、ということもあるけれど。
澤井は保住の姿をちらりと見ると、「なんだ。珍しくしおらしいじゃないか」と口元を歪めた。
「お前がそんな態度なのは、下心がある時か、悪い知らせだな」
澤井はふと手を止めてから、老眼鏡を外して保住を見据えた。保住は澤井を見返した。
「——あなたとの関係はこれきりにしてもらいます」
澤井は「職場でがっつりプライベートな話をするものだな」と笑った。確かに。こんな話をここでするべきではない。しかし。事務所に残っている田口を思い出し、保住は「すみません」と頭を下げた。
「田口と和解でもしたか」
「和解というか……」
「つまらんな。時間の問題とは思っていたが、こう早いとは。田口も我慢が足りないものだ。人間はどん底を見て、成長するものだ。あいつにはどん底がお似合いだがな」
「貴方は……。知っていたのですか? 田口の気持ちも。おれの気持ちも」
——そうだ。この人は、人をよく見ている。おれたちはこの人に踊らされていただけ……。
「あの男は真面目で一本通っている割に、相手のことを尊重し過ぎる。恋愛は相手のことばかり考えていたら、なにも進まないものだ。だから、おれが手伝ってやったのではないか」
「澤井さん、貴方は……」
——性格が悪くはないというのは訂正。本当に質が悪い男だ。
澤井は田口や保住の気持ちを知りながら、こうしてうまく突きまわしていただけ。彼にとったら、保住との関係性も遊び以外のなにものでもないということだ。
それもそうだろう。彼には妻があり、子もある。この男にとったら、男である保住と寝ることなど、遊びの一環だったに違いない。保住は嫌悪感を抱く。澤井を睨みつけるが、そんなことを気にするような男ではない。澤井は両腕を広げて笑った。
「まあ、おれも楽しんだ。お前たちも思いを伝え合えたのだろう? おれに感謝してもらいたいものだな」
「あなたって人は、……呆れますね」
保住は澤井の側まで歩み寄った。それから彼を見つめる。
「澤井さん。あなたは、どこまで本気なのです?」
澤井はにやりと口元を上げると「それを知ってどうするのだ? 本気なら、おれのものになるのか?」と低い声で言った。
「それは——できかねます」
「なら教える必要はないな」
澤井の腕が伸びてくる。その大きな手は、そっと保住の頬に添えられた。
「おれはオペラが成功を確認して異動だ。お前と田口は、もう一年ここに残れ」
「なにを……」
「おれが副市長になったら、お前たち二人には手伝ってもらいたいことが控えている。せいぜい仲良くして、田口をそばに置いておけ」
ふっと軽く笑った、澤井は手を引いた。
「さっさと帰れ。おれも帰れないではないか」
「……わかりました」
保住は頭を下げて澤井の部屋を出る。彼の言っていることが理解できない。しかし。澤井は今回のオペラの成功を手に副市長になるのだろう。澤井の心は深くて計り知れないものがある。言葉の意味と、腹の中の意味は全く違っているのではないか。そう、単純な話ではないような気もするのだ。
薄暗くなっている事務室に戻ると、そこには田口が一人座っていた。彼の胸の中で泣いた自分を思い出すと恥ずかしい気持ちになる。しかし——。
——もう田口には見せるところもないくらい、おれの全てをさらけ出してしまったのだ。今更恥ずかしがることもない……か。
田口は不安げな表情のまま、じっとこちらを見ていた。
「帰るぞ。田口」
そう声をかける。するとその表情は、ぱっと明るく変わる。
——ああ。そうだ。おれは田口のこんな顔が好きだ。
「腹が減ったぞ」
「……おれは胸がいっぱいです」
「なんだ。それは」
田口は満面の笑みを浮かべて、荷物をかき集めた。やっていることは、まるで大型犬だ。荷物を抱えると、田口は保住を見た。
「あ、あの。保住さん」
「なに?」
「いえ。あの。その」
田口は戸惑った顔をして荷物を抱えた。
「いえ。一緒に帰りましょう!」
「わざわざ別に帰るのも変だろうが」
「それはそうですけど。なにを食べましょうか」
「別に。米がいいな」
「わかりました。考えます」
「考えますとは?」
事務所の照明を消すと、二人は廊下に出た。こうして田口の熱をそばで感じる幸せ。少し見上げないと、伺うことのできないつぶらな瞳は優しい。
「そうですね……米ですね。おにぎりくらいなら作れます」
「作れる? お前の家に行くのか」
「え、来ませんか? 米くらいはあります」
「バカ言え。お前のおにぎりを食べるくらいなら、コンビニのでいい」
「えー。そんな! 頑張ります」
「粥すらうまく作れないくせに」
「練習します」
田口はそう言って笑った。
——ああ、おれはこの時間が好きなのだ。
田口のいない世界はモノクロ。ぱっと彩られたこの世界。保住の世界は華やかに彩られ、心は満たされていた。
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