第4話 彩られる世界
「保住さん。気がついていますか?」
「え……?」
田口の声に驚いて顔を上げる。田口は口元を緩めて保住を見下ろしていた。
「『お前はおれのところにいろ。他の誰とも仲良くすることを許さない』って聞こえます」
「なっ……!」
頭のてっぺんまで熱くなった。田口に心を見透かられているというのか。自分でもやっと気がついたこの気持ちを、当事者である相手に指摘されたこと。それがすごく恥ずかしかったのだ。保住は必死に首を横に振った。
「ち、違うんだ。違う。そんなはずは——。おれは別に、お前など、誰と仲良くしようと、そんなことは知ったことでは……」
混乱していた。その隙に田口は保住の頬を流れ落ちている涙を指で拭い、それからそのまま下に下がると、ネクタイに指をかけて一気に引き抜いた。
「田口……っ!」
——それだけは……。
田口の腕を掴むが、それは全くもって無駄な行為だ。田口は保住が止めようとうする腕を無視し、そのままワイシャツのボタンを二つ外した。保住の白い首筋に残る跡。澤井が昨晩つけた跡だ。それを田口は指でなぞる。
「やめろ……。見るな」
「澤井局長……ですね?」
こうして自分のものであると印をつける。夜だけではない。昼間もこうして自分に縛りつける。澤井という男は執拗な男だ。からだ中、全て絡み取られていくようだ。
——逃げ道はない。
「お付き合い。しているのでしょうか。——あの時は。すごく苦しそうだったのに。澤井さんでいいんですね?」
「それは……」
田口の瞳は慈愛に満ちた色を浮かべている。本当ならすがりたい。彼に救って欲しいと思っている。けれど、それは自分勝手な思いだ。田口が自分を大切にしてくれていると知っているくせに。田口を傷つけるようなことを平気でする。なんて身勝手な行動だ。
——お前が思っているような男ではないのだ。おれは浅はかで、愚か。お前と肩を並べて歩けるような立派な人間ではない。
「本意なのですか」
「そ、そうだ。おれは……っ。おれは澤井と——」
「ほらまた」
田口はそっと保住の頬に手を当てる。その手のひらはとても温かい。保住のぼろぼろに傷ついた心にじんわりとしみこんできた。
「そんな辛そうな顔して。どうして幸せそうな笑顔を見せてくれないのです?」
「それは……」
——辛いからだ。
「本気で澤井さんとつき合っているのなら、幸せそうにしてくださいよ」
保住は黙り込むしかない。
——幸せなわけがあるか。おれは泥沼の底……。
「あなたの気持ちは何処にあるのでしょうか?」
——おれの気持ちは……。
『誰の目も構わずに、自分の心の
父親の声が耳元で響いた。
——そうだな。それもまた人生なのかも知れない。おれは自分自身から逃げ続けているだけ。
ただ口を閉ざしていると、田口が頭を下げた。
「すみませんでした。おれの覚悟が決まらないから。嫌われたらどうしよう、おれの気持ちを知られたら、きっと気味悪がられて、あなたのそばにはいられないと臆病になっていました」
田口は屈みこんで、保住の目をしっかりと見据える。視線を逸らすことなどできない。そのまっすぐな視線からは視線を逸らすことはできなかった。
「だけど、あなたの事やっぱり諦めきれないって、この数週間でよくわかりました。嫌うなら嫌ってください。軽蔑してください」
田口は言葉を切ると、笑みを見せた。
「保住さん、おれはあなたが好きです。ただの友達なんかじゃない。愛しています。おれは、あなたのためだけにありたい。だから、あなたにもおれだけを見て欲しい」
緊張で張り詰めていた糸が緩んだ。瞳から涙が次々に零れた。
「例え澤井さんとお付き合いしていても、おれの気持ちを知っていて欲しいんです。澤井さんと付き合うのかどうかはあなたの気持ちだと思うんです。だから、その。おれは強制できないって言うか……。だけど、それは結構……おれは嫌で。……えっと。なんて言うのかな……」
田口は眉間に皺を寄せた。それから、「えっと」と何度か呟く。次になにを言うか考えている仕草だった。
保住の心は歓喜で踊る。田口は——田口も自分のことを好きでいてくれたということか。自分たちは互いの気持ちを持ちながら、遠回りしてきたということなのだ。保住は田口の腕を握り返した。今度は田口は驚いた顔をする番だった。
「……澤井と別れろと言え」
保住はポツンと呟いた。田口は保住の口元に耳を寄せた。
「保住さん、なんて……?」
「おれと付き合えと言え。田口」
気恥ずかしくて顔を上げることができない。しかし——。田口は嬉しそうに笑みを見せた。
「あ、はい! それです! そうですね! おれと付き合え! 澤井とは別れろ! です!」
田口の笑顔は眩しい。純粋で素直であったかい。澤井といると寂しさは紛れる。だがそれは、田口と一緒にいる時とは違った感覚だった。田口は、保住に安心感や自信、満たされた感情を与えてくれる。
——これが好き? 好き。
胸がキュンとして、じんわり温かい。コツンと田口の胸に額をぶつけると、距離が縮まった。
「わかった。お前の言う通りにしてやる」
モノクロの世界が、一瞬で鮮やかな色を取り戻す。田口はそっと保住の肩を引いて抱き寄せた。
「すみませんでした。遅くて」
「本当だ——このノロマ」
保住はそっと田口の肩に顔を埋めると、それに反応するかのように腰を強く引かれてからだがくっついた。田口の温もりは温かくて心地よい。そう、ずっとこうしたかった。こうして欲しかった。澤井とは違う田口の温もりに。理由はわからないのに、満たされる思いで溺れそうだ。
「保住さんが引っ張ってくれないと、なにもできない男です」
「……馬鹿者が」
素直に「好き」とは言い難い。この気持ちがなにか、正直戸惑っているからだ。しかし、保住はすっかり田口に捕まっている。誰かと一緒にいることが、こんなにも心満たされるなんて知らなかった。
だから——。言葉とは裏腹に、田口のスーツをぎゅっと握った。田口の嬉しそうな視線が自分に注がれているのかと思うと、気恥ずかしくて顔をあげられない。
居た堪れなくなって田口に縋ると、彼は小さくつぶやいた。
「すみませんでした」
——田口銀太。おれにとったら、人生で一番大切な男。
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