第6話 後悔はしたくはない
「なんだい。あんたたち、知り合いかい?」
桜の問いに、神崎は「例のオペラの担当してくれた子」と田口を紹介した。それからすぐに弾かれたように言った。
「係長さんと、仲直りしたの?」
「先生。あの……」
「んもう。じれったいわねえ。あのさ。係長さんは銀太のことがすっごく好きなんだと見た」
「そんなことは——」
「だって。ヤキモチでしょう? あれ。私のところに銀太を置いて行ったのは自分なのに。私とのことを疑っていたようだもの」
「係長は……。仕事一筋の方です。そんなこと、あるわけないじゃないですか」
「そうかな~。そうは思わないけど」
神崎は桜が差し出した、きれいなオレンジ色のカクテルを口に含むと、悪戯な笑みを見せた。
「銀太、人生にはね、ターニングポイントっていうのがいくつも存在するわけ。そこでいかに運を自分のものにできるのか。それが人生を成功に導く大きなカギになるの」
彼女は桜と視線を合わせて頷き合った。
「私たち音楽家は特にそう。チャンスが巡ってきた時に、それを自分のものにできる実力がないと。どんどん埋もれていくだけ。夢を諦めるしかなくなるのよ。あなたはどう思う? 夢を諦めたいの? 保住くんを諦めたいの?」
——おれは。諦められるわけない。
胸の奥がジンと熱くなる。そばにいるだけでいいと思っていた。支えられればいいと。だがそれは、保住の視線が自分に向いていてくれる時の話。保住にそっぽを向かれてしまったら。田口は生きている意味を見出せない。
「努力が必要なのよ。待っているだけではだめ。欲しいものがあるなら、自分で手を伸ばさないと」
「神崎は強運の持ち主って言われているわ。こんな田舎で活動していて、売れっ子の作曲家になれるなんて、稀だもの。けどね。彼女はただ運がいいだけじゃない。そのチャンスを自分のものにできる実力がある」
桜はそう説明した。神崎は「桜もね」と言った。しかし彼女は首を横に振った。
「成功だけが全てじゃない。私はここにいることを選んだ。ねえ、野木」
「そうだな」と野木は笑った。
「ここにいる桜が。おれは好きだぜ」
「ありがとう」
三人は意味深な笑みを浮かべている。ここにいる三人にも、語りつくせないような苦悩があったに違いない。だが、彼らは自分たちで考え、そして選んできた。だからこそ、後悔がないという顔つきなのだ。
自分はどうだ。田口は自問自答していた。自分に偽りなく、後悔せずに生きているのか。答えはノーだ。精一杯のことをせずに、自分は、自分を守ることばかりに意識を向けてきた。
保住に迷惑をかけてしまう。そう悩んでいた。けれど遠慮し、押し隠そうとすればするほど、保住との関係はぎくしゃくしているのではないか。こんなことを自分は望んではいない。自分は。保住の隣にいたいのだから。
「おれ。ちゃんとします。タイミングはいつがいいのかわからないけれど。ちゃんとします」
田口はまっすぐに前を向いて言った。神崎たちは笑みを浮かべている。
「いい顔してんじゃん」
桜は煙草を灰皿に押し付けると、先ほどと同じカクテルを田口に差し出した。
「今回のオペラ。銀太のことを見ていたらいいアイデアが思いついたんだよ。あのオペラはあなたに捧げるよ」
神崎はカクテルグラスを掲げた。
「すげえな。オペラ捧げられるなんて、滅多にねえことだぜ。がんばれよ。おれは一生懸命な奴は全力で応援する質でな」
初対面で応援もなにもないが——。野木もグラスを傾ける。田口は心がじんわりと温かくなるのを感じる。
人は、人と人とのつながりでストレスを受ける。けれども、その逆もあるということ。力をもらった気がした。この人たちは、人間的に素晴らしい人なのだと思った。それぞれが自分の人生を謳歌しているのだ。後悔することもあるのかも知れない。想い悩み、苦しむこともある。けれど——。
——それが生きていくということ。
どんなに深い闇に落ち込んだとしても、きっと這い上がることができる。
——おれはおれ自身に嘘を吐きたくはない。そして、後悔もしたくはない。保住さん……。
無機質なあの横顔。
——貴方は今、幸せなのでしょうか。
艶やかな笑みを見せる保住でいて欲しい。どことなしか悲し気な彼の横顔は見ていられなかった。
——貴方の笑顔を取り戻す。おれはそのためだったら、なんでもします。
田口はそう心に決めていた。
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