第14章 彩られる世界

第1話 渡辺、リタイヤです!


 

 ——からだが重い……。


 朝の通勤ラッシュで、いつもよりも往来している車の数は多い。車窓からその様子を見つめていると、不意に車が停止した。


「お前な。部下なんだから運転くらいするものだろう?」


 エンジンを切った澤井は、保住を見ていた。


「こんな高級車。ぶつけたら大変ですから」


「お前の車は玩具みたいなものだからな。もう少しいい車に乗れ。上に行くには、そういう細かいところまで気を遣う必要がある」


 澤井はルームミラーでネクタイを正すと、保住の首に腕を回してきた。あっという間もない。すっかりと引き寄せられたかと思うと唇が重なった。澤井の熱と匂いに、今朝までのことを思い出し、からだが震えた。


「かわいい反応を示すものだな」


「喜んでいるのではありませんよ」


「そうか?」


 澤井は満面の笑みを見せた。


「田口とはどうだ」


「どうって……」


 昨日の朝。田口のすがるような瞳を振り切って澤井と東京出張に出かけた。心が苦しかった。まるで雨の中、捨てられている子犬みたいな瞳だった。保住はぎゅっと目を閉じてからからだを起こす。


「関係ありません。いつも通り。問題ありません」


「昨日は——」


「仕事に行きます。それでは——」


 澤井の言葉を最後まで聞かずに、保住は彼の車から降りた。


 ——いつまで続く。こんなバカげたこと。おれは一体。どこに行くつもりなのだ。


 澤井から逃げ、田口からも逃げて。保住は真っ暗闇の中で行き先を見失っていた。事務所に顔を出すと、すでにみんなが揃っていた。田口は相変わらず心配気に保住を見ている。その瞳を見返せない自分がいる。


「係長。昨日は出張、お疲れ様でした」


 渡辺が立ち上がって頭を下げた。彼は珍しく頬を赤くしている。みんなが昨日の出張の話を聞きたがっているようことは手に取るようにわかった。保住は腰を下ろすと、昨日の顛末について報告をした。


 今回のオペラの監修を、梅沢市出身の世界的指揮者、関口圭一郎に依頼していたことを思い出した保住は、彼のスケジュールをすぐに調べた。すると、どうだ。ちょうどオフで東京の自宅にいるということがわかった。


 関口圭一郎は、現在、ドイツのオーケストラの常任指揮者も引き受けているという。オペラ公演の期間は、自分のオーケストラを引き連れて来日し、オーケストラのオフの時間を利用してオペラに力を貸してくれるということだった。


「なら、そのオケも拝借しちゃおうってことだったんですか?」


 矢部は開いた口がふさがらないという顔をしていた。保住自身も、無茶な思いつきだと思った。どうせオフなら、オペラの伴奏をしてもらおう。かなり無茶なお願いだった。しかし。梅沢市出身の関口は、保住たちの申し出に快諾してくれた。


 事前にマネジャーを通しておいたことも功を奏した。保住たちが東京の関口邸を訪問した時には、オーケストラの担当者とも話がついていて、スムーズに事が進んだというわけだ。


「無茶苦茶じゃないですか」


「マエストロも無茶苦茶なお人だったから、話が早かったよ」


「もう。ひやひやでした。けれど、それならなおさら話題性が高くなりますね。転んでもただでは起きないってやつですね?」


 渡辺は笑みを見せる。保住も頷いた。


「ということで、オケは話が決まりました。少々スケジュールの変更が必要ですが。問題はないでしょう」


「さすが。係長ですね」


 谷川はそう言って、田口を見た。彼もまた、「そうですね」と言う。保住は田口の顔が見られない。そのまま腰を上げる。打ち合わせなどないが、ここにはいられなかった。渡辺たちは快く送り出してくれたが、心は惑っている。


 保住は、お茶のペットボトルだけを手に一階に降りた。今日は特に気分が優れない。精神的に疲弊しているからだは、食べ物を受け付けるのもやっとだ。澤井とからだを重ねるほど、心に重苦しいなにかが溜まっていく。


 ——仕事なんかうまくいったって、なんの意味もないだろうが。


 そう考える自分が意外だった。仕事しかない人生だったのに。たった一人の人間とぎくしゃくするだけで、こんなにもダメージを負うとは思ってもみなかったのだ。


 目と閉じれば田口の姿だけが思い浮かぶ。


「係長」


 幻覚か。幻聴か。保住は瞼を持ち上げて顔を上げた。すると、そこには田口が立っていた。


「やっぱりここにおられましたね」


 彼はまっすぐに保住を見下ろしていた。


「な、何故。ここだと——」


「今日の午前中。打ち合わせなんて入っていません。休憩なさるなら、ここかなって思って……」


 言葉にならない。


「体調が優れないようですが。おかえりになったらいかがですか」


「いや。別に。体調が悪いわけではないのだ——。それより。なんだ。なにか用か」


「渡辺さんが体調、悪いみたいなんです」


 そう言われてみると、渡辺は赤い顔をしていた。保住は腰を上げた。田口が歩き出した後ろをついていく。つい先日までは、こうして二人で歩く時間がとても幸せだったはずなのに——。心が重く感じられる。


 保住はそっと「渡辺さんはどんな調子だ?」と問うた。田口は振り向くことなく返答を返してきた。


「風邪ではないでしょうか。熱があるようですよ。無理して出てきたみたいです。今日は午後から挨拶回りがあったので」


 事務所に着くと、渡辺は赤い顔をしていた。


「係長、申し訳ありません……」


 彼は申し訳なさそうに頭を下げた。部下の異変にも気が付かずに離席するなど、上司失格だ。保住はため息を吐いた。


「渡辺さん。今日は帰ったほうがいいですね。帰れますか。誰か送っていきましょうか」


「いえ。帰れることは帰れます。しかし。午後から関係機関への挨拶回りがあるんです。田口一人にやらせるわけには……」


「渡辺さん。頼りないかも知れませんけど。おれ一人でも大丈夫ですから」


 田口は「任せてください」と言うが、そうもいくまい。保住は自分のカレンダーに視線を遣る。それから「大丈夫です」と答えた。


「おれが田口のフォローをします。渡辺さんは帰りましょう。こじらせると悪い。むしろきちんと元気になって早く出てきてください」


 保住の言葉に、渡辺は本当に申し訳なさそうにしているが、本当に具合が悪いらしい。顔色が蒼白で視線が定まらなかった。


「すみません。おれたちは別件で県との打ち合わせが」


 谷川と矢部は顔を見合わせた。保住は首を横に振った。


「少ない人数で回しているのです。こういう緊急事態には、みんなで助け合う必要があります。大丈夫。ともかくなんとかなりますから。渡辺さんは帰ってください。みんなも早めに昼食を摂って、午後に備えましょう」


 渡辺は頭を下げると、荷物をまとめて事務所を出て行った。ふらふらと出て行く渡辺を見送ってから、他の三人は保住を見た。ゆっくりと自分のことにかまけている場合ではないらしい。残された四人は、職務に戻った。



***


 昼食後。田口は公用車のハンドルを握っていた。助手席に座った保住は、渡辺から手渡されていたリストを眺めている。


「かなり詰め込みのスケジュールだな。無茶してくれる。夜になるかも知れないな」


 保住がふと田口を見た。その視線はどこかぼんやりとしていて、田口を見ているようで見ていない。この視線にぶち当たってしまうと、田口の心はくじけそうになる。だが——。


 ——おれは後悔しない。せっかく渡辺さんがくれたチャンスだ。


 渡辺には悪いが、田口にとったら好都合以外の何物でもない。保住とこうして二人切になることが、ここのところなかったからだ。ずっと昨日から考えていた。バーラプソディのみんなに背中を押されて。田口は、保住ときちんと向き合うと決めたのだ。


 今朝。田口はいつもよりも早く出勤をして、保住が借りている月極駐車場を回ってみた。彼の自家用車はそこに停められていたというのに。事務所に行ってみると保住の姿はなかった。


 ——澤井さんだ。


 澤井が保住を連れて行った。それは確実だ。あの夜と一緒。教育委員長の研修会の夜と一緒だ。あの時。保住は澤井との関係性を結んだことを後悔していた。なのに。また澤井との関係を続けているのだろうか。


 余計なお世話なのかも知れない。あの夜のことはあれきりで、今は澤井との関係を自ら望んでいるのかもしれない。けれど。ここのところの保住を見ていると、どうしてもそう見えなかった。


 保住はまた。きっとなにか悩んでいる。そしてそれを一人で抱え込んでいるのだ。


 ——余計なお世話だってかまわない。おれは、保住さんに笑っていて欲しいんだから……。


「リスト通りに回れ。さっさと切り上げて次々回るぞ」


 保住の指示に田口は頷くと、アクセルを踏み込んだ。





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