第4話 バーラプソディ


「お疲れさまです」その一言が言えない。田口はスマートフォンをソファに投げ出すと、大きくため息を吐いた。


「ダメだ……。どうしちゃったんだよ……」


 その日。定時になって保住と澤井は帰ってこなかった。渡辺の話だと、新しいオーケストラの依頼をするために東京に出かけて行ったそうだ。保住から聞きたかった。けれど、神崎のところで口論になってからというもの、彼は田口に声をかけてくれなくなった。


 いや、無視されているのではない。仕事の話は普通にするからだ。しかし——。以前のように懇意にしてくれることがなくなったのだ。


 保住と出会う前の生活に戻っただけだ。こうして帰宅をした後、コンビニの弁当を食べて、ビールを飲む。こんなことは日常茶飯事だったはずなのに。


「お前は中学生だな」


 仕事の話をするために、田口の家によく寄ってくれていた彼が、今、ここにはいない。自分の隣に、彼がいることが当たり前になっていたのに。


 ——保住さん……。


 気持ちが通じなくてもいい。そばに居られれば。そう思っていたはずなのに。田口の心はいつの間にか貪欲に彼を求める。


 ——贅沢な願いだってことはわかっている。けれど……。


 保住を連れ、事務室を出ていった澤井が憎らしく思える。澤井と保住の間には、自分が計り知れないなにかがあるということだ。


 田口は首を横に振った。相談できる相手もいない。眠れるわけもない。多少アルコールは入っているが、こんなものは大したことではない。こういう時はからだを動かすに限る。走ってこようかと外に出た。


 深夜に差し掛かっている時間だが、田口の家の界隈かいわいには飲み屋が多いので、人通りが絶えなかった。外に出て、周囲を見渡すと、ふと紫の看板ライトが光を放っているのが目についた。『バーラプソディ』だ。古ぼけた壁と日に焼けてくすんだ色の扉を見ると、なんだか昭和の匂いがするスナックだ。


 なんとなく人恋しくて扉を押すと、中からはピアノの音が流れてきた。


「生演奏?」


 どうやら、カラオケスナックとは違うようだ。見た目とは違い、中は静かなピアノの音が響いている。驚いて目を瞬かせると、無愛想な女がカウンター越しに田口を見てから、プイッと顔を背けた。


「あ、あの。初めてはダメですか?」


 拒否されているような気がして尋ねると、カウンターに座っていた男が笑て手を上げた。


「大丈夫だよ、入りなよ」


 どうやら客らしい。彼は水割りグラスを片手にタバコをふかしていた。


さくら、愛想良くしないと。新しいお客様がビビるだろう」


 男は女を茶化すが、桜と呼ばれたカウンターの女性は眉間に皺を寄せた。本当に無愛想な女性だと思った。田口は男に誘われるように、店内に足を踏み入れる。中はそう広くない。カウンターに五、六人が座れて、後は丸テーブルがいくつかある程度。


 ただ、目を見張るのは、店の奥にあるグランドピアノだ。あれは——。


「スタンウェイ?」


 確か、星音堂せいおんどうが所有する、高額なピアノと同じメーカーだ。


「お! 兄ちゃん。楽器に詳しいのかい?」


 男は嬉しそうに田口を招き、隣に座らせた。


「いえ。すみません。仕事柄知っているだけで、おれ自身、音楽はよくわかりません」


 スタンウェイを弾いているのは若い男性だった。静かな雰囲気の曲は田口の心を落ち着かせてくれた。


「仕事って?」


 桜が珍しく口を開く。


「えっと、役所です」


「役所でスタンウェイと出会える部署なんてあんの?」


「文化課です。星野一郎記念館を担当しています」


「ああ、なるほど」


 桜は笑った。その笑みは艶やか。今までの不愛想な雰囲気とのギャップに、一瞬どっきりとした。まるで保住みだいだ。整った顔出しは、黙っているとまるで人形みたいに冷たく感じられる。けれど、ひとたび笑顔を見せれば、その笑みは田口の心を掴んで離さない。


 ——見惚れる。そういう言葉が適切だろう。彼がいない世界はモノクロだ。全てのが色あせてくすんで見えた。田口が黙り込んだのを見て、男は口元を緩めた。


「ここに来る奴は、なにか背負ってるもんだ。おれでもいいなら聞いてやるぜ?」


 男はそう言って、自分の胸を拳で叩いた。桜は「そうだな。人生相談は野木の専売特許みたいなものだから。話してみたら」と言った。


「おれは野木ってーんだ。この店の一番の古株な。いつもは大人しいけど、音楽にはちとうるさいぜ」


「田口です。音楽関係の方ですか?」


 田口の問いに桜が口を挟んだ。


「野木は自分では全く演奏できないんだよな! こんなに楽器下手なセンスのない奴は初めてみたくらいだ」


 酷い言い様だが、野木は笑う。


「そうなんだよ。こんなに音楽を愛しているのにさ。全くダメ。ピアノ、歌、ギター、パーカッション、なんでもトライしたんだが」


「全部センスゼロ。全て講師から印籠を渡されたんだ」




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