第2話 アクシデント
「製本は待っていられないので、とりあえず手書きのものを市民合唱へ渡してきます」
矢部の報告に、渡辺も「ソリストたちにも郵送しました」と言った。
「オーケストラの譜面も早急にお願いします」
谷川は「わかりました」と答える。
「多少遅れましたが、練習日程は予定通りで良さそうですね」
この調子なら万事うまくいく。ここにいる誰もがそう確信した時、一本の電話が鳴った。
「はい、お電話ありがとうございます。梅沢市文化課、田口です」
すかさず田口が受話器を持ち上げた。
「あの。
「あ、丹野さん、いつもありがとうございます!」
電話の相手は、オペラで伴奏を頼むオーケストラのマネジャーだった。しかし、田口の声色とは裏腹に、丹野の声は暗い。その異変に気がついた田口は声色を落とす。
「いかがされましたか?」
「田口さん。大変お伝えしてにくく、申し訳ない限りなのですが……今回の件、出演を辞退させてもらいたい」
田口の心臓が跳ね上がった。自分の手に負える電話ではなさそうだ。
「少々お待ちください。あの、私ではお応えし兼ねますので。はい、申し訳ありません」
田口の言葉に安堵感が漂っていた空気が、緊張したものに変わる。
「あの。係長。御影交響楽団の丹野さんなんですが——」
田口の声に保住は顔を上げた。
「出演をキャンセルしたいと言っています」
「嘘でしょ?!」
渡辺、矢部、谷川は声を合わせて絶句。保住は黙って受話器を持ち上げて、外線を引き継いだ。
「お待たせいたしました。保住です。——ああ、丹野さんお久しぶりですね。内容はお聞きしましたが、事情を知りたいものですね。ええ、どうぞ」
「ふんふん」とか、「なるほど、それはそれは」と相槌を打つ彼の様子を固唾を飲んで見守る。
「そうですか。致し方ありませんね。いえ、とんでもない。早く教えていただいたので手の打ちようはあるかと思います。お電話ありがとうございました」
受話器を置いた保住の顔色は悪い。
「——御影はダメだそうだ」
「一体どうしたと言うのですか?」
渡辺の問いに保住は答える。
「新しい
「そんなことあるんですか?」
谷川は目を丸くする。
「おれもオーケストラの事情はよくわかりませんけど、色々とあるのでしょう。ギリギリで出来ないと言われるよりはマシですが、これからオケを探すのは……厳しいですね」
「どうしましょう」
保住は椅子に寄りかかり、頭の後ろで手を組む。彼の考えている時のくせだ。しばらく一同は黙り込んでいた。そのうち、ふと保住が席を立つ。
「係長?」
「局長のところに行ってきます」
「なにか思いついたんですか?」
「かなり無茶苦茶なことですけど」
彼は微笑して出て行った。
「なにか思いついたんだな。あの顔は」
田口はため息を吐いた。全くの役立たずだ。自分の不甲斐なさにがっかりする。保住の力になれない自分は……ただの無力な価値のない男に見えた。
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