第9話 代償

 それから三日後。空いている田口の席が当たり前のようになった頃。渡辺が痺れを切らしたように声を上げた。


「係長。やっぱり田口を呼び戻しましょうよ。楽曲もかなめですけど、人がいないのは堪えます」


 ——田口。


 彼はまだ姿を表さない。あんなひどい言葉を投げつけた。謝らなくてはいけないことは重々承知のことなのに。彼の顔が見られない。保住はあれから、神崎のところに顔を出さずにいた。


 あの夜。澤井の誘いを受けた。心が疲弊していた。自分で自分がわからない。もうどうしたらいいのかわからないのだ。まるで底なしの沼にハマってしまったかのようだ。もがけばもがくほど、深みにハマる。


 保住は首を横に振った。


「戻す気はありません。楽曲は必ず完成させます。申し訳ないですが、もう少し堪えてください」


 すると、澤井が顔を出した。


「保住、ちょっと来い! 聞こえんのか!」


 保住はため息を吐き、ゆっくりと腰を上げた。調子が出ない。仕事も捗らない。局長室に足を踏み入れると、ひと足先に戻っていた澤井が、ソファにどっかりと腰を下ろす。それから、書類をテーブルに叩きつけた。


「なんだ。この書類は。お前らしくもない。こんなミス」


「たまには大目にみてくださいよ」


 めんどくさそうに、保住は書類を持ち上げた。書類を眺めてみると、どうやら日付を間違えているようだ。こんなミスは初めてだった。


「ここのところこんなものばかりだ。お前、おれに嫌がらせでもしたいのか!? くだらんことでおれの時間を奪うな」


 ——その通りだな。


 ぼんやりと書類を眺めていると、澤井は大きくため息を吐いた。


「楽曲は、どうなっている」


「わかりません」


「なぜだ」


「把握していないからに決まっているじゃないですか」


「なぜ把握しない。職務放棄か」


「田口に任せています」


「係長職は把握する義務がある」


 保住は書類を握る。田口の顔が薄ぼんやりとして輪郭を成さない。


 ——ああ。田口はどんな顔をしていただろうか。


 澤井との夜を過ごした翌日はからだが重い。いや、からだだけではない。心が沈み込む。


「仕事はしろ。保住。お前らしさを取り戻さなければ、お前の居場所はなくなる」


 ——居場所? 居場所なんてどこにもない。おれはまた。空っぽな自分にもどっただけ……。


「全く。役立たずだな。あの男」


「あいつは……。職務を全うしているだけです。問題ありません」


「庇うか? こんなに時間をかけて、仕事もろくにできない部下を庇うか? それは上司としては誤った判断だな」


「いいえ。田口は」


 ——やめろ。私情だ。上司としての判断ではない。


 目の前がぼやけて混乱していた。何を言っているのか、自分でもわからない。誤作動を起こしている。


「問題があるとは思えません」


 保住は半分独り言のように呟いた。その時——。

突然田口が顔を出した。


「出来ました!」


 久しぶりに見た田口は、保住には眩し過ぎた。彼は大きな茶封筒を掲げた。


「仕上がりました。序曲から、最後のエンディングまで。全ての楽譜をいただきました!」


 どんな顔をして彼を見たらいいのかわからない。言葉が出ずにじっとしていると、澤井が「見せてみろ」と手を差し出した。田口は保住に頭を下げてから澤井の前に立つ。


「こちらです。すみません。音楽のことはよくわかりませんが、これで全てだと、神崎先生がおっしゃっていました」


 澤井は楽譜をペラペラとめくり、そして頷いた。


「どうやら本当らしい。至急、製版会社に回せ」


「了解です。この足で行ってきます!」


「原稿はこっち持ちだ。何部かコピーしていけ」


「わかりました」


 田口は嬉しそうな笑みを見せてから、騒々しく局長室を後にした。保住はただ。田口の後ろ姿を見つめ続けていた。


「——褒めてやらないか。お前が押しつけた無理難題をこなしてきたんだぞ」


「すみません。……言葉が見つかりません」


「そうか」


 澤井は保住の隣に立つと、その腕を回してくる。あっという間に引き寄せられたかと思うと耳元に唇を押し当てられた。


「いいな。元の通りだ。保住」


「わかっています」


「うまくやらないと。田口が傷つく」


 保住は澤井の拘束から、するりと抜け出した。それからただ、頭を下げて廊下に出た。


 田口に出会ってしまったら、言葉が出なかった。田口への罪悪感が、胸を締めつける。事務所に戻ると、田口の姿はすっかりなかった。渡辺たちに「よかったですね」と声をかけられても、ちっとも嬉しくなどなかった。


 結局、田口は定時を過ぎても帰らなかった。電話でなにやら話していた谷川が、受話器を下ろしてから保住を見る。


「依頼に時間がかかるそうです。何時になるかわからないので直帰させちゃいましたけどいいですか?」


「結構です。ありがとうございます」


 ——田口が戻ってこない。


 それはそれで、内心ほっとしてしまうのは気のせいではない。顔向けできない。それが本音。時計の針は六時を回っていた。






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