第8話 「好き」の意味

 ——おれは。おれは、田口が好きなのか。


『おれは、あなたの良いところだけじゃなくて、悪いところも全部引っくるめて知りたい』


 田口の声が耳元で響いていた。あの言葉に嘘は感じられなかった。


『一人で頑張らないで。おれがそばにいます。支えますから。あなたを取り戻して。あなたはここにいるのです。亡くなったお父様ではない』


 そう——田口はそう言ってくれた。ずっと一人でやってきた。誰も救いの手を差し伸べてはくれない世界だ。


 ——おれはおれだ。保住尚貴という一つの一個体。


 田口と出会ってからの自分は、まるで人生が変わった。今までのように、なにもない人生ではなかった。


「保住さん」


 何もない空っぽだった自分を満たしてくれたのは彼ではないか。


 父の影。保住家のしがらみ。市役所という組織の中の自分。いろいろなことに翻弄ほんろうされながらも、こうしてここにいる。そして、そう悪くはない。そう思えるようになったのは、彼と出会ってから。


 この好きの意味もわからないのに、田口が自分以外の人間と親しくしていると不安になる。置いていかれるのではないかと。田口の眼差しが自分に向かなくなったら、寂しいに決まっている。友達なのか、部下なのか、それ以上なのか、わからない。


 だけど、ただ一つ言えること。それは。


 ——田口が『好き』だという気持ちだ。


「この前の晩。お前を抱いた時。お前は田口の名を呼んでいた」


「……そんな、はずは……」


 羞恥心で耳までも熱くなる。澤井の舌が、その熱を奪うかのように耳を這う。


「澤井……さんっ」


「お前は田口が好きだ。だが、あいつはどうだ? あの男は。お前のこの異常な愛を知ったら。田口はどうするのだろうな。お前を満足させ、可愛がれるのはおれしかいない」


 保住の心は揺れ動く。


 ——そうだ。おれの気持ちは。異常だ。部下で、それでいて同性のあいつに恋心を抱くなど。常軌を逸している。


 保住の目尻から涙が溢れた。


 田口という男は、実直だ。きっと良き夫となり、良き父となる。それと引き換え自分は——。


 ——薄汚い野良猫だ。


「気味悪がられるぞ」


「……気味が悪い……ですか」


「ああそうだ。嫌われたくないのだろう? だったら黙って、いい上司ヅラしていろ」


 澤井は保住の腰に腕を回すと、力強く抱き寄せた。


「悪いようにはしない。おれとお前の仲だからな」


 ——ああ。おれは気味が悪いのか。


 もう何も感じない。田口で彩られた世界は、あっという間に崩れ落ちる。そしてそれは自分が招いたこと。欲を出した自分が悪いのだ。


 何事にも無頓着で、こだわりもなかった。だから、そつなく生きてこられた。なのに。田口という男に執着したが故に味わう思い。


 ——苦しい。バチが当たった。


 こんなに苦しい思いをしたことはない。嗚咽が漏れた。苦しくて、苦しくて。どうしようもなかった。目の前にいる澤井に縋るなど、意味もない。そうわかってはいるのに、自分の気持ちを理解してくれているのは、彼だけだ。


「おれは。あいつが……」


「そうだ。大切なのだろう? ならやめておけ。あいつが傷つく。大切なら、今までの関係を保持しろ。それがあいつのためだ。お前の異常な感情に付き合わせたらかわいそうだろう?」


 澤井は口元を上げた。一度自覚した恋心をゼロにはできない。だが——。そうしなければならないことを保住は自覚した。


「送っていく。お前の傷ついた心はおれが埋めてやる」


 澤井の差し出す手を。保住は躊躇いがちに取る。


 ——これでいい。いつも通りに戻るだけ。おれもあいつも。ただの上司と部下になればいい。


 どちらかが異動し、離れてしまえばいい。いつのまにか、この燃え上がった熱は、時間が収めてくれる。


 保住は澤井に手を引かれて、暗い廊下を歩いた。


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