第6話 見透かされる心
——馬鹿だ。なにをしているのだ。おれは……。
神崎の家を飛び出した保住は、家に帰る気にもならなかった。嫌なことがあると、すぐに仕事に逃げる。それが保住だ。
彼は帰途につくことことをやめ、職場に足を向けた。仕事がはかどらなかった。三人が頑張ってくれているのはわかるのだが、違うのだ。彼らでは、田口の代わりはできない。
まるで自分が無能な人間に成り下がったみたいで嫌な気持ちになった。田口がいないと、自分は……。
庁舎前の駐車場に車を止めてから、人の少ない廊下を歩く。事務所には誰も残っていなかった。くもりガラスから覗く真っ暗な事務所を見て、内心ほっとした。
一人がいい。誰とも顔を合わせたくない。ところが、ノブに手をかけた瞬間、澤井の声が聞こえた。弾かれたように振り返ると、彼は帰り支度でそこにいた。
「なんだ。今日は店じまいかと思ったのに」
「……県庁に行ってきました。これから、もう少し仕事をしたいのですが」
「係長以上には残業代は出さん。仕事をしたいものを止めたりはしない」
「そうですか。それではそうさせてもらいましょう。お疲れ様でした」
保住は頭を下げて事務所に入ろうとする。しかし澤井はそこから動かなかった。
「そういえば、楽曲はどうなった。お前の片腕の田口が張り付いているのだろう? こうも長々と職員が取られると洒落にもならんな」
「まだのようです。経過を見に行ってきましたが」
「見に行ってきたのか? 気になるか。そうか」
「それは気にもなります。楽曲は事業の要で……」
視線が泳ぐ。澤井は愉快そうに笑った。
「そうではあるまい。気になるのは田口のこと、だろう?」
「な……」
「お前が口ごもる様は、なかなか見られないからな。これはこれは、
言い返す気力もない。保住は黙り込んだ。
「田口は先生とよろしくやっていたのか? 慰めてやろうか。お前のために時間を取ってやってもいいぞ」
「結構です。お気持ちだけいただきますよ」
澤井から視線を外した瞬間。ふと彼の気配に顔を上げたが遅い。澤井の大きな手がノブを掴んでいた保住の手を握り、強引に引き寄せる。方向を変えられたかと思うと、古ぼけたドアを背に澤井が唇を重ねてきた。
「離してください」
軽いキスはすぐに止む。保住は顔をそむけた。
「人の温かさや、繋がりを知らなければ、こんな喪失を味わうこともないのだ。保住。田口に近付くのは止めておけ。お前が傷つくだけだ」
「なにを……」
「お前はずっと一人で来たのではないか。自分の実力だけを信じて。またいつものお前に戻ればいいだけの話だ」
耳元で囁く澤井の言葉は悪魔の囁きのように、心に染み込んでくる。
「お前の理解者は、おれだけでいい。そうだろう」
「な、なにを言って……。意味がわかりません」
「素直になれば可愛がってやる」
「一度、そうなったからと言って図に乗るのはやめてください。あれは、父の代わりとして——」
「そうだったな。しかし、おれは言ったはずだ。お前はお前だったと理解したと」
「では……」
「お前の父は父。お前はお前。そのお前を抱いてやろうと言っているのだ」
「ふざけないでください。人を
保住は乱暴に澤井の拘束から逃れようとするが、澤井は余裕の笑みで保住を見下ろすだけだ。
「怒るな。怒るという感情も田口と出会って知ったのだろう? イライラしたり。もやもやして」
「それは……」
「仕事のことではよく怒っていたが、人間関係で悩むお前は見たことがない。愉快だな」
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